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第3章 微分のプリント、破れてた

「はい、今日は y = x² の導関数を求めてみましょう」

教授の声が教室に響いた瞬間、俺の脳内はザーッというノイズで埋め尽くされた。
分かるようで分からない。いや、そもそも分かろうとする気力すら残っていない。
周囲の学生たちが一斉に鉛筆を走らせる音だけが、カリカリと耳に刺さる。

手元のプリントは、昨日の雨でシワシワになっていた。バッグの底で濡れ、インクがにじみ、端が破れている。まるで今の俺の頭の中そのものだった。

この『大学』に通い始めた理由なんて、SNSに「ニューヨークで大学生活しています」と書きたかったから。それっぽく見えればいいと思った。
正直、もう一つの理由は…女と出会えるかもしれないという淡い期待。

就職? ありえない。
英語面接はもちろん、日本語ですら自信がない。履歴書は空白ばかりで、見直すたびにやる気が削がれていく。
Uber配達は一人で走るだけで、人と会話する機会なんてない。
だから聴講生として『誰でも入れる』と噂のコミュニティカレッジに入ってみた。

すぐに分かった。出会いなんてない。
教室には、退職後に趣味で通っているらしい老人や、質問ばかりの小太りの男、仕事の合間に単位を取るシングルマザー風の女性…俺が思い描いていた華やかな大学生活はどこにもなかった。

授業内容は日本の高校2年レベルの数学だが、俺にはちんぷんかんぷん。
教授が「Next, Mr Tamura」と指したとき、俺はただ首を横に振った。
『分かりません』を英語で言うことすらできなかった。

誰も笑わなかった。
その沈黙が逆に惨めだった。

授業を終え、大学内に設置された自転車置き場へ戻る。
空はどんよりと曇り、細かい雨が頬を打つ。観光客などいないこの界隈は、アジア系、ラテン系、黒人、中東系の人々が黙々と行き交い、道路脇にはアフォーダブルハウジング(低所得者向け住宅)の赤茶色のレンガの建物が並ぶ。

半年以上住んでも、友達と呼べる存在はゼロ。
ルームメイトとも会話はない。時間だけが流れていく。

逃げ込むように、マルベリー・ストリートのカフェに入り、5ドルのラテを頼む。なんでTipを払わないといけないんだよとブツブツ文句をいいながら。
Wi-Fiがつながると、すぐにSNSを開き、投稿予定のYouTube動画のタイトルを考える。

【NY大学生活】数学の授業風景!アメリカで勉強ってこういうこと

嘘だらけ。でも、誰にもバレない。
カメラの前では笑って「今日は勉強頑張りました!」と締め、中日ドラゴンズの青いキャップをわざと映す。

部屋に戻ると、洗濯物が山積みだった。
近所のコインランドリーに行けば、黒人やラテン系のおばちゃんたちが乾燥機から熱い洗濯物を抱え出し、折りたたみ台に並べて畳んでいる。洗剤の匂いが強すぎて目が痛くなる。ここで日本人は俺ひとりだ。

家賃は親の仕送り。Uberの稼ぎでは足りず、毎月20万円近くを日本から送ってもらっている。母が「海外送金ってどうやるの?」とLINEしてきたときは、すぐにZoomをつないで画面共有で教えた。
俺の生活が懸かっているから。

授業はときどきサボる。
出会いもなく、勉強も意味がない。ならUberの配達をした方が稼げる。雨が降れば料金は上がるが、路面は滑りやすく、バッグの中身が濡れるリスクもある。
それでも走る。その姿を自撮り棒で撮影しながら。

有料の観光地には行かない。ロックフェラーセンターの展望台も、自由の女神も。俺のニューヨークは、青空の下を自転車で走って行ける無料スポットだけだ。

その夜、ベッドに横になってスマホを開いた。
YouTubeの最新動画の再生数は18回。いいね1件、コメントなし。
Instagramはいいね0。フォロワーは9人、そのうち6人はフォローバック。

そんな中、画面に新しい通知が出た。

新しいメッセージ:@shioriszk
はじめまして。YouTube見てます。なんか…すごく、共感しました。応援してます。

心臓がドクンと鳴った。ファン?
いや、『ファ『』とは書かれていない。でも「共感」という言葉に、何かが揺れた。

アカウントは鍵付き、投稿は数件、プロフィールは「NY在住/30代/しがない日々」。
アイコンは街角の後ろ姿で、顔は見えない。
──でも、『同じ匂い』がした。

すぐに返信を打つ。

メッセージありがとうございます。見てくださって嬉しいです。NY生活、正直しんどいですよね笑
どこに住んでるんですか?

送ってから、既読になるのを待つ。
少しテンションが高すぎたかと思ったが、もう取り消せない。

その夜は、いつものようにセクシービデオは開かなかった。
頭に浮かぶのは、画面越しではなく、自分に言葉をくれた誰かのこと。
…誰かとつながった。
それだけで、今日が少しだけ意味を持った気がした。

(続きはこちら)第4章:ファンですって、言われた