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第一章:出発の日

朝5時。まだ夜のように暗い東京の空の下、私は目を覚ました。 目覚まし時計のアラームが鳴る前だった。自然と体が反応していたのだろう。今日が出発の日。そう思った瞬間、胸の奥にぎゅっと重さが宿るのを感じた。

寝室を抜けてリビングに向かうと、妻・日奈子がすでにキッチンに立っていた。パジャマの上にカーディガンを羽織り、味噌汁の鍋をゆっくりかき混ぜている。 その背中が、頼もしくもあり、少しだけ小さくも見えた。

「おはよう」

 「おはよう。…眠れた?」

 「うん、まぁ。眠れたような、眠れなかったような」


言葉は簡素だったが、その一言一言に感情がにじんでいた。ソファの上では、4歳の娘・さくらが小さな毛布にくるまっていた。まだ夢の中にいるその姿を見て、私は心の中で「大丈夫だよ」とささやいた。 本当に大丈夫かどうかは、正直わからなかったけれど。

遡ること2か月。

1月の寒い朝、部長に呼び出されて言われた。

 「アメリカ・ニューヨークへの駐在、決まったぞ」

それがすべての始まりだった。日奈子にその夜伝えると、一瞬だけ表情が固まった。
でもすぐに、「やっと来たね」と微笑んでくれた。そう、“やっと”だった。努力はしてきた。報われるとは限らない中で、自分なりに積み上げてきた10年だった。

しかし、そこからは嵐のような準備が待っていた。
役所への届け出、住民票の処理、保育園の退園手続き、妻の会社退職。そして何よりビザ取得のためのアメリカ大使館での面接。

赤坂のアメリカ大使館は、まるで要塞のようだった。日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅を降り、坂道を上る。手荷物は大使館にはもって入れないので、虎ノ門ヒルズ駅に備え付けのコインランドリーに荷物を預けた。


鉄格子のゲートをくぐり、警備員にパスポートを見せ、金属探知機を通る。日本であるはずなのに、すでにそこは異国だった。

「何をしにアメリカへ行きますか?」

 「過去に犯罪歴はありますか?」

 「滞在予定は?」

VISAを取得する面接で聞かれた内容は想像よりも簡単だった。

立ったままの短い面談。特に難しいことは聞かれず、L-1ビザの申請は滞りなく終わった。L-1ビザはアメリカに現地法人がある場合に取得できるVISAで最長7年であるが、私は管理職ではないので5年のVISAになった。妻はL-2ビザ。いわゆる、配偶者のビザだ。

ふと後ろを振り返ると、英語の響きと外国人職員の鋭い眼差しに、日奈子は終始緊張していた。


「今からこんなに緊張してて、大丈夫かな」
 

帰りの地下鉄で、彼女がぽつりとつぶやいた。私は何も言えなかった。

そして最大の山場は、引っ越しの荷造りだった。日本での家は賃貸で、住みやすい間取りの2LDK。狭いが、新婚当初から住んでおり、3人の思い出がたくさん詰まっている。キッチンの壁に残る、娘さくらの成長記録の落書き。 玄関脇に貼った、遠足の写真。ふとした拍子に涙が出そうになる。

引っ越しの荷物は3つに分けた。実家へ預けるもの、船便で送るもの、航空便で持っていくもの。

航空便は数日で届く。最低限の生活用品だけを入れる。歯ブラシ、下着、変圧器、英語の教材、そしてさくらの大好きなぬいぐるみ。

「これはアメリカに持っていく?」

 「うん。ミミちゃんといっしょに行く」

小さな手でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめるさくらの姿が、まぶたに焼き付いた。

変圧器や日本製の炊飯器は、日奈子が銀行に代々伝わる駐在の「虎の巻」で得た知識によるものだった。

 「アメリカの歯ブラシは大きすぎて、子供には合わないらしいよ」

 「米がまずいらしいから、日本の炊飯器を持っていこう」

 毎晩駐在に関連するインスタとブログを読み込み、真剣に情報を集めていた。その日常が、少しだけ誇らしくもあった。

出発直前、日奈子の実家へ荷物を届けに行った。義母は「寂しくなるわね」と言いながら、何も聞かずに預かってくれた。

「無理しないでね。大事な大黒柱なんだから。」

 その一言だけが、心に深く残った。

保育園の最終日、さくらは仲良しの友達に絵本を渡した。

 「また、あそぼうね。」

 「うん。」


さくらは無理して笑顔を作っていたが、その目には涙が浮かんでいた。

日奈子も、大学時代の友人たちと最後のランチを楽しんできたらしい。

「みんな『うらやましい!』って言ってたけど、本当は怖いよね」 

その言葉がリアルな感想だったと思った。

私自身も、職場で送別会を開いてもらった。


「さすが、やっぱり行くと思ってたよ」

 「外資行くのも時間の問題だな!」

冗談まじりに持ち上げられたが、内心では不安の方が大きかった。出世コースのように見えるかもしれないが、 駐在は、ある意味“別ルート”を歩むことでもある。
駐在の期間である3年から5年のブランクが命取りになることもある。 不安定な“栄誉”に、胸の奥は静かにざわついていた。

羽田空港・国際線第三ターミナル。いわゆる、サンタミ。

住み慣れた自宅をでて、妻の両親に鍵を託してその場でお別れをしたため、テレビでみるような空港での涙のお見送りはなかったが、自宅を出てタクシーに乗るときには少し寂しそうな雰囲気を感じていた。

空港での人波の中、私たちは明らかに“慣れていない”側だった。カウンターで飛行機の搭乗手続きを終えたのはよかったが、保安検査で私のリュックが引っかかり、中を開けられた。
 

日本製の延長コードだった。

「これは持ち込み可能です」

係員の言葉に安心する。ささいなことも、今日は全部不安に感じる。

出国ゲートの前で、さくらが聞いた。

 「パパ、アメリカって、どのくらいとおいの?」

 「うーん、飛行機で半日くらいかな」

 「さくら、おともだちできるかな?」

 「きっとできるよ。ママもパパもいっしょだから」

搭乗口のベンチに座り、最後の日本の空気を吸い込んだ。

搭乗アナウンスが流れる。
搭乗口へ向かう途中、ふと日奈子がスマホを見て涙ぐんだ。
画面には、2歳のさくらがケーキを食べている動画。

「あの頃も、いまも、幸せだったよね」

「うん。これからも、きっとそうだよ」

そして、私たちは搭乗ゲートを越えた。振り返ると、そこには何もない。けれど、その先には、新しい生活が待っている。たとえ不安だとしても、逃げるわけにはいかない。
自分が選び、家族が支えてくれたこの一歩を、大事に歩いていこうと思った。

この瞬間から、私たちの「駐在生活」が始まったのだった。

(続きはこちら)第二章:異国の朝