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第十章:駐在という呪い

午前10時、チャイムが鳴った。

「こんにちは、日本通運です。お荷物のお届けに参りました」

玄関ドアのインターホン越しに聞こえるその声に、日奈子は一瞬動けなくなった。

(来た……)

2か月前、日本を発つ前に手放したダンボールたち。あのとき、未来への希望を詰め込むようにして送った荷物が、ようやくニューヨークのこの家にたどり着いたのだ。

数日前に連絡は受けていた。

「6月2日の10時前後にお伺いします。立ち会いをお願いします」

その時間に合わせて、日奈子は部屋を片付け、少しだけ化粧もした。なんだか大切な人を迎えるような、不思議な気持ちだった。引越し業者は、日本通運。段ボールには「精密機器注意」「われもの」など、見慣れた日本語のシールが貼られていた。

荷物は全部で30箱。業者が運び込みながら丁寧に言う。

「外装は少し汚れましたが、中は大丈夫です」

「ありがとうございます」

日奈子は頭を下げながらも、涙がにじむのをこらえていた。

箱の一つを開けると、見慣れた炊飯器が現れた。

「あ、これ……新品だったんだっけ」

そう呟いた瞬間、日本の電気屋で俊介と一緒に選んだ日のことが脳裏によみがえった。

「アメリカの炊飯器は高いらしいし、こっちで買っておこう」

「うん、“虎の巻”にもそう書いてあったしね」

何かを始めようとしていた、あのときの自分たちが、箱の中から静かに語りかけてくるようだった。

そして、もう一つの段ボールを開ける。そこには、ぬいぐるみがぎっしりと詰まっていた。

「……ミミちゃんの家族だ」

日奈子がそうつぶやいたとき、さくらが駆け寄ってきた。

「ほんと? ミミちゃんのパパとママと、おねえちゃん……!」

飛行機にはひとつしか持ち込めなかったぬいぐるみ。泣く泣く別れを告げたミミちゃんの“家族”たちが、ようやくここへたどり着いたのだ。

「よかったね、さくら」

「うん……やっと、みんなそろったね」

小さなさくらの手に包まれるぬいぐるみたちは、どれも日本の空気をまだ纏っているようだった。その瞬間、日奈子もようやく“帰る場所”のようなものを感じた。

その夜。俊介が帰宅し、積まれた段ボールを見て息を吐いた。

「……来たんだな、ついに」

「うん、やっと」

二人は、何かを確かめるように無言で箱を開けていった。英語の参考書、書きかけのノート、家族写真、そして実家の母からの手紙。そこにあるのは「過去」なのに、なぜか「未来」を照らす灯りのようだった。

「俊介」

「うん?」

「私たち、すごく期待してたんだよね。あのとき」

俊介はしばらく黙った後、答えた。

「ああ、そうだな。俺なんて、駐在って聞いた瞬間“勝った”って思ったかもしれない」

「私も、“これで何かが変わる”って思ってた。でも……変わったのは、想像よりずっと別のことだった」

二人は、静かに笑った。

日奈子はキッチンに立ち、船便で届いた鍋で味噌汁を作った。いつもより少しだけ手をかけて。

「さくら、今夜はおにぎりもあるよ」

「やったー!」

さくらはミミちゃんたちをソファに並べ、まるで家族団らんのように一人ひとりに話しかけていた。

「ミミちゃん、こっちがパパね。ママはここ。おねえちゃんは……こっち!」

日奈子はそっと、その光景をカメラに収めた。

夕食後、俊介と日奈子は久しぶりに並んでソファに座った。

「駐在って、何なんだろうね」

「さあ……でも、一つだけ言えるのは」

日奈子は、照明を少し落としながら続けた。

「“呪い”って、最初は他人から与えられるものだと思ってた。でも違う。“呪い”って、たぶん、自分が自分にかけてるんだよな。“こうあるべき”とか、“こうでなければいけない”とか……」

日奈子は静かに目を閉じて聞いていた。

「でもね、それを解く鍵も、自分の中にある気がするの」

「……うん。少しずつでいいよな」

「うん。少しずつ」

箱はまだ開けていないものがいくつかあった。けれど、急ぐ必要はない。彼らは、この土地に“暮らす”ということを、ようやくほんの少しだけ、理解し始めていた。

その夜、俊介は小さな声で言った。

「呪いって、もしかしたら何度でも現れるのかもしれない。でも……」

「そのたびに、少しずつ一緒にほどいていけばいい」 

家族の間に静かに流れる時間。その先にある未来を、誰もまだ知らない。けれど、今はそれで十分だった。

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