14時間のフライトを経て、私たちはニューヨーク・JFK空港に降り立った。現地時間は朝6時過ぎ。JFK空港のガラス越しには、ぼんやりとした薄明かりが差し込み、まだ眠っている街の気配を遠くに感じた。
入国審査では、Lビザの目的や滞在期間について、英語で質問された。「What do you do in the US?」と問われ、「ビジネス…ジャパニーズ・カンパニー」とようやく言葉を絞り出す。準備していたつもりでも、緊張と聞き取りの難しさでまともに答えられなかった。日奈子は子供を抱きかかえ、一言も発せず、審査官の目すら見られずにいた。全員の顔写真をとり、指紋を登録し、ようやく入国スタンプが押された。
荷物を受け取ったとき、日奈子は小さくつぶやいた。「入国するだけで、こんなに疲れるなんて」
到着ゲートを抜けると、「Mr. Kondo」と書かれた紙を掲げる男性が立っていた。会社が手配した日本人ドライバーだった。「お疲れさまでした」と日本語で声をかけられた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
車に乗り込むと、彼は穏やかに話しかけてくれた。「今日は少し寒いですね。昨日は雪がぱらついてましたよ」「そうなんですね…」そんな他愛もないやりとりが、今の私たちにはとてもありがたかった。日奈子も小さく笑った。
高速道路を北へ進みながら、マンハッタンの摩天楼が遠くに現れる。「あれがニューヨーク?」とさくらが聞いた。「そう、遠くに見えるのがマンハッタンだよ」と教えると、さくらはしばらく黙って眺めていた。
やがて車は、郊外の「ハリソン」へという地域の静かな住宅街に入っていった。日本人駐在員が多く住むエリアらしい。
会社が用意してくれたのは、3か月間限定の家具付きアパートだった。広くて整ってはいるが、まるで“モデルルーム”のようで、生活感がまったくなかった。清潔であるがゆえに、自分たちの暮らしが根付くまでの距離を痛感させる場所だった。
カーテンを開けると、小さな裏庭にリスが走り抜けていった。「リス!」と叫ぶさくらの声に、ようやく部屋に少し温度が生まれた。
翌日は引っ越しの準備のため、会社出社の予定はなかった。数日の自宅待機期間を利用して、生活の立ち上げを進めることにした。最優先は買い物。車がないため、タクシーを手配して近くの大型ショッピングモールへ向かった。
スーパーの入口に立った瞬間、私たちは圧倒された。天井の高い売り場に、巨大な陳列棚。サイズも価格も、日本とは全く違った。
「卵1パックで1500円…?」「オレンジジュースが1000円…これ、冗談じゃないの?」日奈子の顔がこわばった。日本で使っていたクレジットカードを使ったが、数日後にインターネットで確認した明細に海外利用料が上乗せされ、為替レートもテレビで見る水準よりも条件の悪い水準が適用されていた。
「これ、思った以上にきついかもしれない…」
それでも、車がないので頻繁に来られる場所ではないと判断し、まとめ買いをした。帰りのタクシーの中、買い物袋を抱えて互いに無言だった。疲れよりも、現実に飲み込まれていた。
夕飯を作る元気はなく、スーパーで買った巨大なホールピザを温めた。「アメリカっぽいね」と笑ってみせたが、家族全員で半分も食べきれず、翌日の夕飯にも同じピザを出すことになった。
その週末、日奈子は一人で日本人会のイベントに出かけた。事前に俊介が同僚から聞いていたもので、駐在妻が集まる催し物がハリソン近郊で偶然開催されていた。
帰宅した日奈子の顔は、わずかに曇っていた。
「みんな笑顔だったけど…どこか張り詰めた空気だった」
すでに形成された輪の中に入る難しさ。話題の中には、ご主人の会社名や駐在年数、居住エリアといった“無言のヒエラルキー”が感じられたという。
「話はできたけど、たぶん覚えられてないなって分かる瞬間があったの。輪の外にいる感じって、こんなに分かるんだね」
また、そこで紹介されたネットスーパーの情報も気になった。「WeeeeやRakutenが便利」と教えられたが、後日わかったのは、紹介者にリベートが入る仕組みだった。そういった説明は一切なかった。
「紹介って、親切だと思ったけど…ちょっとモヤモヤした」
さらに、日本人が集まるLINEグループの存在も耳にした。だが参加には順番待ちがあるという。500人という上限があるため、空きが出るまで待つ必要があるとのことだった。
「入れなきゃ損、って空気なの。でも、なんだかね…」
子どもへの影響も、少しずつ現れ始めた。さくらは渡米後直ぐに現地の保育園に通い始めた。ちょうど枠が空いているという情報を得ていたため、少し早いと思ったが子供だからすぐ慣れるだろうと思い通い始めた。先生はすべてネイティブのアメリカ人。最初の数日は楽しそうにしていたものの、次第に言葉数が減っていった。
ある朝、日奈子が洗濯機を開けると、布団が濡れていた。「……おねしょ?」と声をかけると、さくらは申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい…」三
日奈子はそっと背中をさすりながら、「大丈夫。ママがいるからね」と優しく抱き寄せた。
異国の朝は、私たちから多くの言葉を奪っていった。けれど、それでも私たちは進んでいくしかなかった。