おすすめ案件はこちら

第三章:家族の孤独

アメリカに来てから1週間が経った。

生活は始まったが、生活が“整った”とは到底言えなかった。家具付きの仮住まいは、広く清潔である反面、無機質で生活感に乏しく、どこか“自分の居場所”には思えなかった。夜になると蛍光灯の白い光だけがやけにまぶしく、冷蔵庫の低いモーター音が静寂の中に響いていた。

俊介は、いよいよマンハッタンのオフィスへの初出社を迎えた。朝、ドアを開けて外に出たときのあの冷たい空気。きらきらとした朝陽の中、ハリソンの住宅街はとても静かだった。木々の枝はまだ冬の名残を残し、乾いた舗装路に霜がうっすらと残っている。

「行ってきます」

「気をつけてね」

駅までの道を歩くと、日本人らしきスーツ姿の男性とすれ違った。駅のホームにも日本語が飛び交い、思っていたよりも“日本”の延長線のような空気が漂っていた。電車の中は空いており、着席できた。

出発してしばらくは木々が並ぶ住宅地が続くが、しだいにビルが増え、地下鉄の線路と絡むように街が変化していく。そして、グランド・セントラル駅。まるで映画のような構内の光景に、俊介は圧倒された。

オフィスはそこから徒歩10分ほど。6番街、Avenue of Americaにある1251番地の高層ビル。目の前にはロックフェラーセンターがそびえ、壁には日本の写楽の絵が壁いっぱいに記載されている。日本の大手不動産会社が所有しているためか、周辺には日系企業も多い。

ビルに入るには、まず1階のカウンターで入館証を発行してもらう必要があった。初めての訪問なので、社員カードではなく、パスポートを提示して確認を受ける。その仮カードでゲートを通過するのだ。

初日はIT部門の担当者とのセッティングが中心だった。メール、PCログイン、VPNの設定、プリンタ設定。これが思いのほか手間取った。IT担当はアジア系の若者だったが、会話は完全に英語。しかもIT用語。

「Please set your multifactor with DUO mobile, and then log into the shared VPN folder…」

「…Sorry, can you say that again… slowly?」

金融用語ならまだしも、IT関連の専門用語となると、さっぱり意味がわからなかった。設定が終わるころには、汗をかいていた。

一方、日奈子とさくらは、いつもより静かな朝を過ごしていた。俊介が出て行った後の部屋は、より広く感じた。

「さくら、今日は外に出ようか」

「やだ。ずっとママといる」

日本人以外の人が視界に入ると、さくらは小さく母親の後ろに隠れるようになっていた。英語が飛び交うスーパーや道端でも、無意識に視線を避け、日奈子の手をきつく握ってくる。

それは“人見知り”という一言では済まされない変化だった。

夜、俊介が仕事から帰ると、さくらはすぐに抱きついてきた。まるで父親が戻ってきたことで「これでやっと安心できる」と言わんばかりに。日奈子も笑顔で迎えるが、その目の奥には、日に日に濃くなる疲労が見えていた。

「おかえり。ご飯はあたためるだけにしてあるよ」

「ありがとう…仕事、どうだった?」

「……言葉、通じないのがつらい。ITの人の説明も半分くらいしかわからなかった」

「……こっちも、さくらが引きこもりそうで…ちょっと心配」

二人とも、相手を気遣いながらも、心の中では同じ孤独を抱えていた。それでも、少しずつ日々は積み重なっていく。明日もまた、朝は来る。そして家族は、それぞれの形で“この場所にいる理由”を探しながら、静かに暮らしていた。

俊介の仕事も本格化してきた。日本時間との時差があるため、夜に会議が入ることもしばしばだった。リビングの隅にノートパソコンを開き、イヤホンをつけたまま深夜まで資料の修正をしていた。

「…ねぇ、さくら、寝ようか」

日奈子がさくらを寝室に連れて行った後も、俊介は画面と向き合っていた。ふと時計を見ると、23時を回っていた。日奈子の顔を見る時間が、日に日に短くなっていく。

そんなある夜のことだった。日奈子が静かに言った。

「ねぇ、俊介。今日、誰とも話してないの」

俊介は振り返って彼女を見たが、言葉が出なかった。

「買い物も行ってないし、電話もないし、子どもと絵本読んでただけ。…ねぇ、それって“生活”って言えるのかな?」

日奈子の声は震えていた。でも、怒っているわけではなかった。むしろ、諦めに近い静けさがあった。

「俺もさ、仕事でさ…周り英語ペラペラで、誰とも話せてないよ」

俊介がようやく絞り出した言葉に、日奈子はうっすらと笑った。

「そっか…じゃあ、今のところ、私たち家族全員、ぼっちなんだね」

二人は、笑うでもなく、泣くでもなく、そのままソファに並んで座った。

日奈子は翌日、思い切って再び日本人会の掲示板に連絡をしてみた。ハリソン地区では500人を上限にしたLINEグループがあるらしく、そこに“空き”が出るまでの順番待ちに登録した。

「一体何番目なんだろうね…」

情報は閉じたコミュニティに偏り、誰が何を持っていて、どの店が安いかなども、そのグループの中だけでやりとりされる。LINEに入れないだけで“世界”から締め出されたような気分になる。コミュニティは助け合うために作られたのだと思うが、コミュニティに馴染めない人や入れない人にとっては、疎外感を増すだけのものでしかないのかもしれない。

その掲示板で知った別のママ会にも顔を出してみたが、すでに輪はできており、「初めまして」の会話の裏に、互いの夫の肩書きや居住エリアを推し量る雰囲気があった。

「なんか、“見えない順位”がある感じだった…」と日奈子は帰宅後、ぽつりとつぶやいた。

俊介は出社3日目にして、ようやく同じチームの駐在員と話す機会を得た。

「いやー最初の2週間、うちもカオスでしたよ。妻が3回泣いて、俺も黙ってキッチンで泣いたことあります」

その一言に、俊介は救われた気がした。誰もが最初は孤独で、混乱して、不安で、でも何とかやり過ごしてきたのだ。

夜、リビングでさくらが小さくつぶやいた。

「ママ、ねぇ。さくら、また日本に帰れる?」

「うん。帰れるよ。いつかはね」

「でも、ここ…さくらの家じゃない気がする」

その言葉が胸に突き刺さった。俊介と日奈子は顔を見合わせて、小さく頷いた。

まだ誰も「限界」とは言っていない。でも、「限界」という言葉の輪郭が、少しずつ、ぼやけながら近づいてくるのを、三人とも感じ始めていた。

(続きはこちら)第四章:見えない境界線