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第四章:見えない境界線

アメリカに来てから一か月が過ぎた。

生活は、少しずつ“回ってきた”ようにも見える。だが、順調かと問われれば、胸を張って「はい」と言えるほどのものではない。むしろ、「慣れてきた」というよりも、「慣れなくても生活はできる」それが正確な表現だった。

俊介は、毎朝決まった時間にスーツを着て、ハリソン駅からマンハッタンにあるオフィスへ向かう。グランド・セントラルまでの電車は、座れることが多い。途中の駅で何人もの日本人らしき駐在員とすれ違い、車内では日本語もちらほら聞こえてくる。

「ここは、日本の郊外か?」と思ってしまうほど、日本語の空気が漂っていた。だがそれは、どこか“孤独の共鳴”のようでもあった。

マンハッタンに着けば、俊介の仕事は待ったなしに始まる。英語のメール、英語の会議、英語の指示書。英語に囲まれた空間にいながら、言葉が通じていないことのストレスが、日々じわじわと溜まっていた。

「周りはみんな、慣れてるように見える。自分だけが、いつもワンテンポ遅れているような気がする」

そう思いながら、俊介は帰りの電車で目を閉じることが増えた。

一方で、日奈子の生活は、より閉じられたものになっていた。午前中はさくらの保育園のバスを見送ることから始まる。玄関前まで迎えに来てくれるスクールバスに、さくらを乗せるのは数分で終わる。

そのバスには、他にも日本人の子どもが何人か乗っていた。母親同士で交わす会話は、

「今日も寒いですね」
「今週の幼稚園の献立、もう見ました?」

その程度だった。名乗り合うことも、連絡先を交換することもない。バスが発車すれば、各自が家に戻る。何かトラブルが起きたわけではない。でも、“つながり”が育たない。

「誰とも深く関わらずに、ただ共存しているだけ」

そう実感することが増えていた。

買い物は、近所のスーパーで済ませていた。慣れてくると、セルフレジの存在がとてもありがたかった。商品をスキャンし、クレジットカードをタッチするだけで、人と一言も交わさずに買い物が完了する。

最初はそれが便利だと思っていた。だが、次第に「話さなくても済むこと」が「話せる機会すら失うこと」に変わっていった。

「この街で、今日は誰とも会話していない」

そんな日が、週に何度もあった。

日奈子は、時間があればスマホを見ていた。見ているのは、Instagramでも、おしゃれなVlogでもない。日本語の駐在妻ブログ。しかも、きらびやかなものではなく、「何もできない駐在妻の日常」や、「孤独との向き合い方」といった地味な内容のものだった。

「駐在って、こんなに苦しいんだと思わなかった」

画面越しの誰かがそう語るのを聞きながら、日奈子は「自分だけじゃない」と何とか納得しようとしていた。

Youtubeでも、似たようなチャンネルばかり見るようになった。カフェ巡りや旅行記ではなく、「子どもと言葉が通じない保育園で泣いた日」や、「夫と話す時間がない」など、共感と諦めが詰まったもの。それが唯一の“安心材料”だった。

日奈子が保育園の先生と直接話す機会はほとんどなかった。連絡はアプリやメモで、短く端的に済まされる。

ある日、先生から「She had a quiet day today」とだけ書かれたメッセージが届いた。翻訳アプリを使って訳しながらも、その“quiet”という単語が、なぜか胸に引っかかった。

「元気がなかった、ってこと?」

その夜、さくらに尋ねると、

「……わかんない。ママがずっと寝てたから、ちょっと寂しかった」

そう言って、さくらは日奈子の膝に顔を埋めた。

その翌朝。

俊介はいつものように出勤し、玄関で靴を履きながら「いってきます」と言った。日奈子はキッチンから返事をした。

「いってらっしゃい……」

その声は、どこか空っぽだった。

ドアが閉まった後、日奈子はしばらく動けなかった。そして、ソファに座り込み、スマホを手に取る。画面には、「アメリカ駐在 孤独 辛い」と検索した履歴がずらりと並んでいた。

その週末、日奈子は俊介に言った。

「ねぇ……何か、もうちょっと、外とつながれる方法、ないかな」

「うん、そうだね。日本人会のグループは?」

「まだ順番待ち。入れないまま」

「ママ友は?」

「……バスの送迎のとき、ちょっと話すくらい。深くなることはない。っていうか……怖い」

俊介は何も言えなかった。

「私ね、最近、実家と電話するのもつらいの」

「え?」

「“元気だよ”って言うけど、たぶんバレてる。声のトーンで。母も、“そっか、ならいいんだけどね”って言うけど、本当は“帰っておいで”って言いたいはず。でも、それ言われたら、私、崩れるから。だから言わないんだと思う」

俊介は、日奈子のその強さを、初めて真正面から見た気がした。

「帰りたい」とは言わない。言えない。でも、限界は近づいている。そんな緊張感が、家の中の空気を少しずつ染めていた。

夜、さくらが寝静まったあと、日奈子は言った。

「今日、誰とも話してない」

それは、感情を交えない“報告”のようだった。俊介は、何も答えられなかった。

そして、ふたりは言葉のない時間をそのまま共有した。同じ部屋にいながら、違う場所にいるような夜だった。

(続きはこちら)第五章:運転席に座れない日々