五月の空はどこまでも青く、ハリソンの街路樹はまぶしいほどに若葉をまとっていた。
しかし、我が家の中には、静かな重苦しさが流れていた。日奈子の目は日ごとに沈み、俊介の声には疲労がにじみ、さくらは笑わなくなった。
「……さくら、また、寝てるとき泣いてたよ」
ある朝、日奈子がぼそっと言った。
「最近毎晩そう。静かに……でも、確かに泣いてる」
俊介は一瞬固まった。
「夢でも見たんじゃないのか?」
そう返した自分の言葉に、すぐに後悔した。だが、その瞬間にはもう遅かった。日奈子の表情が、かすかにひきつった。
「……そう、夢かもしれないね」
その口調には、ひどく遠いものを感じた。
夜、俊介は深夜1時まで会議だった。時差の影響で、日本とのやり取りはいつも遅くなる。
会議を終えてリビングに戻ると、日奈子がソファで膝を抱えて座っていた。
「……起きてたのか?」
「うん。寝れないから」
「どうした?」
俊介が近づこうとしたときだった。
「さくらのこと、わかってる?」
「え?」
「あなたはいつも、“大丈夫だよ”って言うけど、本当にそう思ってる?あの子、保育園で英語の意味わからなくて泣いたんだよ」
俊介は黙った。
「先生が言ってた。『She looked overwhelmed today』って。それ、翻訳アプリで調べた。『圧倒されてる』って意味だよ」
日奈子の声が震えていた。
「私ね、英語、苦手だけど、あの時の先生の顔で全部わかったの。あの子、無理してるって。家では何も言わないけど、笑ってるけど、無理してるって」
俊介は何か言いたかった。でも言葉が出なかった。
「……あのね俊介、私も、もう限界かもしれない」
それは、雷が落ちるような瞬間だった。
「毎日、ひとことも誰とも話さない日もあるの。スーパーだってセルフレジ。保育園の送迎は3分。誰とも本当の会話なんてしてない」
「でも、それは……」
「あなたが仕事でつらいのはわかってる。でも、あなたには“社会”があるじゃない。会社があって、同僚がいて、会議があって、昼休みもある。私は? 家の中と、ベンチと、冷たいスーパーだけ」
俊介は立ち上がって何かを言いかけた。
「……それでも、頑張った。運転だって、免許だって、私なりに全部やった。でもね、今日、あの子が“日本に帰りたい”って言ったの」
俊介の喉が、ぎゅっと詰まった。
「あなた、あの子が何を我慢してるか、本当にわかってる?」
「わかってる……つもりだった」
俊介の声は小さかった。
「違うの。わかってなかったの」
日奈子の目には、涙があった。
「私ね……最近、“もう駄目だな”って思う瞬間が増えてる。道ですれ違った日本人ママに話しかけようとして、目をそらされたとき。レジでクレジットカードがうまく通らなかったとき。さくらが何も言わずに隅で絵本を読んでいたとき」
「……」
「あなたは頑張ってる。でも、それを盾にしないで。私だって頑張ってる。さくらだって頑張ってる。……家族でいるって、なんなの?」
俊介は初めて、自分の中の“正しさ”が音を立てて崩れるのを感じた。
「……ごめん」
その言葉が、俊介の口からようやくこぼれた。
「俺、仕事ばかりで……見えてなかった。さくらのことも、お前のことも」
日奈子はしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと漏らした。
「私さ……別に、あなたに稼いでほしいなんて思ってなかった。頑張るあなたを応援してた。でも、応援してるって言ったら、それで全部背負わされるのかなって、だんだん思うようになってきた」
俊介は、それが“限界の兆し”だと直感した。
翌朝。さくらが静かに朝食をとっていた。
「さくら……」
「ん?」
「保育園、つらくない?」
「……だいじょうぶだよ」
小さな笑顔。でも、その目には少し涙が浮かんでいた。午後、日奈子はひとりで外に出た。空は晴れていたが、心は晴れなかった。歩きながら、日本の母親に電話をかけた。
「元気にしてる?」
「……うん、元気だよ」
「声が元気じゃないよ」
「……そう?」
「日奈子。無理しなくていいのよ」
その一言で、涙がこぼれた。
「……ママ、ごめん。なんか、全部わかってるみたいだね」
その夜。さくらが寝たあと、俊介はソファに座っていた日奈子の隣にそっと腰を下ろした。
「俺さ……やっと気づいたよ」
「なにを?」
「“支えられてる”って思ってたけど、実は“甘えてた”だけだったんだなって」
日奈子は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「……遅いよ。でも、気づいてくれて、ちょっと嬉しいかも」
ふたりは、手を繋いだ。
さくらの部屋から、小さな寝息が聞こえていた。誰かが言った。「試されるのは、家族だ」と。今、その意味がようやく胸に沁みていた。この夜を境に、すぐに何かが変わるわけではない。でも、ようやく「ちゃんと向き合う」ための扉が、家族の間に少しだけ開いた気がした。
その隙間から、わずかに未来の光が差し込んでいた。