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第六章:心のひび割れ

五月の空はどこまでも青く、ハリソンの街路樹はまぶしいほどに若葉をまとっていた。

しかし、我が家の中には、静かな重苦しさが流れていた。日奈子の目は日ごとに沈み、俊介の声には疲労がにじみ、さくらは笑わなくなった。

「……さくら、また、寝てるとき泣いてたよ」

ある朝、日奈子がぼそっと言った。

「最近毎晩そう。静かに……でも、確かに泣いてる」

俊介は一瞬固まった。

「夢でも見たんじゃないのか?」

そう返した自分の言葉に、すぐに後悔した。だが、その瞬間にはもう遅かった。日奈子の表情が、かすかにひきつった。

「……そう、夢かもしれないね」

その口調には、ひどく遠いものを感じた。

夜、俊介は深夜1時まで会議だった。時差の影響で、日本とのやり取りはいつも遅くなる。

会議を終えてリビングに戻ると、日奈子がソファで膝を抱えて座っていた。

「……起きてたのか?」

「うん。寝れないから」

「どうした?」

俊介が近づこうとしたときだった。

「さくらのこと、わかってる?」

「え?」

「あなたはいつも、“大丈夫だよ”って言うけど、本当にそう思ってる?あの子、保育園で英語の意味わからなくて泣いたんだよ」

俊介は黙った。

「先生が言ってた。『She looked overwhelmed today』って。それ、翻訳アプリで調べた。『圧倒されてる』って意味だよ」

日奈子の声が震えていた。

「私ね、英語、苦手だけど、あの時の先生の顔で全部わかったの。あの子、無理してるって。家では何も言わないけど、笑ってるけど、無理してるって」

俊介は何か言いたかった。でも言葉が出なかった。

「……あのね俊介、私も、もう限界かもしれない」

それは、雷が落ちるような瞬間だった。

「毎日、ひとことも誰とも話さない日もあるの。スーパーだってセルフレジ。保育園の送迎は3分。誰とも本当の会話なんてしてない」

「でも、それは……」

「あなたが仕事でつらいのはわかってる。でも、あなたには“社会”があるじゃない。会社があって、同僚がいて、会議があって、昼休みもある。私は? 家の中と、ベンチと、冷たいスーパーだけ」

俊介は立ち上がって何かを言いかけた。

「……それでも、頑張った。運転だって、免許だって、私なりに全部やった。でもね、今日、あの子が“日本に帰りたい”って言ったの」

俊介の喉が、ぎゅっと詰まった。

「あなた、あの子が何を我慢してるか、本当にわかってる?」

「わかってる……つもりだった」

俊介の声は小さかった。

「違うの。わかってなかったの」

日奈子の目には、涙があった。

「私ね……最近、“もう駄目だな”って思う瞬間が増えてる。道ですれ違った日本人ママに話しかけようとして、目をそらされたとき。レジでクレジットカードがうまく通らなかったとき。さくらが何も言わずに隅で絵本を読んでいたとき」

「……」

「あなたは頑張ってる。でも、それを盾にしないで。私だって頑張ってる。さくらだって頑張ってる。……家族でいるって、なんなの?」

俊介は初めて、自分の中の“正しさ”が音を立てて崩れるのを感じた。

「……ごめん」

その言葉が、俊介の口からようやくこぼれた。

「俺、仕事ばかりで……見えてなかった。さくらのことも、お前のことも」

日奈子はしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと漏らした。

「私さ……別に、あなたに稼いでほしいなんて思ってなかった。頑張るあなたを応援してた。でも、応援してるって言ったら、それで全部背負わされるのかなって、だんだん思うようになってきた」

俊介は、それが“限界の兆し”だと直感した。

翌朝。さくらが静かに朝食をとっていた。

「さくら……」

「ん?」

「保育園、つらくない?」

「……だいじょうぶだよ」

小さな笑顔。でも、その目には少し涙が浮かんでいた。午後、日奈子はひとりで外に出た。空は晴れていたが、心は晴れなかった。歩きながら、日本の母親に電話をかけた。

「元気にしてる?」

「……うん、元気だよ」

「声が元気じゃないよ」

「……そう?」

「日奈子。無理しなくていいのよ」

その一言で、涙がこぼれた。

「……ママ、ごめん。なんか、全部わかってるみたいだね」

その夜。さくらが寝たあと、俊介はソファに座っていた日奈子の隣にそっと腰を下ろした。

「俺さ……やっと気づいたよ」

「なにを?」

「“支えられてる”って思ってたけど、実は“甘えてた”だけだったんだなって」

日奈子は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「……遅いよ。でも、気づいてくれて、ちょっと嬉しいかも」

ふたりは、手を繋いだ。

さくらの部屋から、小さな寝息が聞こえていた。誰かが言った。「試されるのは、家族だ」と。今、その意味がようやく胸に沁みていた。この夜を境に、すぐに何かが変わるわけではない。でも、ようやく「ちゃんと向き合う」ための扉が、家族の間に少しだけ開いた気がした。

その隙間から、わずかに未来の光が差し込んでいた。

(続きはこちら)第7章:はじめての「外」