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第七章:はじめての「外」

「ママ、今日どこ行くの?」

さくらが、朝の食卓で目玉焼きをつつきながら尋ねてきた。

「……ちょっとだけ、英語のお勉強に行ってくるんだ」

日奈子は少し笑って言った。

「ママもがんばらないとね」

それは、彼女にとって人生で初めての「自主的な一歩」だった。

日奈子が選んだのは、教会が主催している無料の英会話クラスだった。場所はハリソンの少し外れにある、古びたけれども温かみのある教会の集会所。毎週火曜と金曜の午前10時から12時まで開催されており、託児所はないものの、さくらが保育園に行っている時間と重なっていた。

教室に入ると、すでに何人かの女性たちが輪になって座っていた。日奈子はその光景を見て、息を飲んだ。金髪、黒髪、巻き髪、ヒジャブをまとった女性、地味なジャケットにジーンズ姿の人もいれば、民族衣装のような服を着ている人もいる。ラテン系、韓国系、中東系。その多様さにまず驚いた。

「Good morning」

と声をかけられ、日奈子はとっさに「G-good morning…」と返す。

しかし、話し始めた彼女たちの英語が、驚くほど「たどたどしい」ことに、日奈子は気がついた。単語を探し、身振り手振りで補い、文法など構っていられない。発音も決して正確ではない。

「え……みんな、私と同じくらいなんだ……」

心の中で、そう呟いた。それどころか、彼女たちの方がずっと積極的で、ずっと真剣だった。間違えても気にせず、笑いながら学ぼうとしている。日奈子は自分が「外見だけで彼女たちを英語ペラペラの“外人”だと思い込んでいた」ことに気づき、ひどく恥ずかしくなった。

「英語を母語としない人たちの方が、この街にはずっと多いのかもしれない」

その気づきは、彼女の凝り固まっていた偏見を一気に溶かしていった。

日奈子の隣に座ったのは、韓国出身の女性だった。

「Hi, I’m ミン. Are you new here?」

「Yes… I’m Hinako. I came from Japan」

「Oh, Japan! I went to Tokyo once. Shibuya, Ginza… and I love ramen and soba!」

突然、日本の話題が出て、日奈子の顔が一気に明るくなった。

「Really? I’ve been to Seoul, too. I love Samgyetang and Myeongdong.」

ミミンは「わぁ、本当? 明洞!サムゲタン!」と手を叩いて喜んだ。

それだけのことで、日奈子の胸がじんと熱くなった。

「友達……なのかな」

まだ確信はない。でも、心が動いた。今までのニューヨーク生活で、初めてだった。

帰り道、空は高く晴れていて、歩く足取りも軽かった。「ママ、今日はちょっとだけ前に進めたかもしれない」そんな実感が、日奈子の胸に残っていた。

その夜。さくらは、テレビの前で何かのアニメを見ていた。

「Dora the Explorer」——アメリカの子供向け英語教育番組だった。

「さくら、それわかるの?」

「うん、少しだけ。でも、音が面白いの」

日奈子は、それを見て、ふと気づいた。

「この子の方が、私より英語に近づいてるのかもしれない」

自分は、スマホで「何もできない駐在妻」のYouTubeばかり見ていた。共感できる言葉を求めてばかりで、前に進む努力はさくらの方がしている。

「……ママも、ちゃんと頑張らなきゃね」

そう言うと、さくらは笑った。

「うん、がんばってね、ママ」

英会話教室では、またミンと隣になった。

「あの、日本の“たこ焼き”って、食べたことある?」

「Of course! I love takoyaki!」

「えー、本当? 今度、作ってあげたいな」

「Then I make kimchi pancakes for you!」

二人は顔を見合わせて笑った。

「この人と、ちゃんと友達になれたらいいな」

そう思ったとき、日奈子の中で何かが動き始めた。

彼女はまだ、周りに溶け込めてはいない。でも、もう“ひとりぼっち”ではないかもしれない。その夜、さくらが寝静まったあと、俊介に日奈子はぽつりと言った。

「ねぇ、少しだけだけど……前に進めた気がするよ」

「うん。俺も、なんか嬉しいよ」

ふたりは、ソファに座って手を繋いだ。まだ、この街は“自分たちの居場所”ではない。でも、その一歩一歩が、いつか「帰る場所」になるかもしれない。

(続きはこちら)第八章:すれ違う思いやり