「ママ、きょう英語で“ありがとう”って言えたよ」
夕食の席で、さくらがぱっと顔を上げて言った。
「ほんとに? すごいじゃん!」
俊介が嬉しそうに笑い、娘の頭をなでる。日奈子も微笑んではいたが、胸の奥に小さな波紋が広がっていた。
(この子……私より早く、この場所に馴染もうとしているのかもしれない)
俊介の仕事は本格化していた。出社は毎朝早く、帰宅は21時を過ぎるのが当たり前。在宅勤務も可能なはずなのに、彼は一度も家で仕事をしようとしなかった。
「会社の方が集中できるから」
そう言っていたが、日奈子は気づいていた。彼が“家庭から逃げている”ことに。
そして、週末になれば、彼は家族サービスとしてスーパーに付き合い、運転し、買い物にも協力してくれる。ただその目は、どこかぼんやりとしていた。平日の疲れを引きずり、心ここにあらず。優しいけれど、どこか“義務”のような優しさだった。
会話も、仕事の話ばかりだった。
「今週はレポートが3本。上司からのフィードバックもやばくてさ……」
「ふーん……大変だね」
「日本との時差があるから、夜中の会議も多くて……」
「……」
共通の話題がない。日本にいたときは、日奈子の職場の話も子育ても、そこには“接点”があった。でも今、俊介の仕事は彼女にとって異世界でしかなかった。英語の書類、海外の顧客、金融商品。
理解も共感もできず、ただ聞くだけ。愚痴を受け止めることも、しだいに苦しくなっていた。
その夜も、俊介はキッチンのカウンターに座って仕事の愚痴を話していた。
「ほんと、上司がさ、言うことコロコロ変わって……もう少し明確にしてくれないと」
「……ねぇ、もうその話、やめない?」
「え?」
「私、何もわからないの。あなたの仕事も、用語も、そこにいる人も」
俊介は口を閉ざした。沈黙が流れた。
「ごめん、仕事の話ばかりで」
「違うの。私が話を聞きたいのは、あなたが何を思ってるか、感じてるかであって……仕事の愚痴を垂れ流すことじゃないの」
その数日後、ついに日奈子は爆発した。
「あなたって、結局いつも“自分”ばっかり!」
「……なにが言いたいの?」
「こっちが限界でも、気づきもしない。毎日家を出て、英語の壁と戦って、子育てと戦って、孤独と戦って、それでも……あなたは“仕事が忙しい”で全部済ませるの!?」
「……じゃあ、どうすればよかったんだよ」
「帰ってくるなとは言ってない。でも、少しは見て。私がどんな顔して、どんな声で、毎日過ごしてるか」
俊介は言葉を失った。
その後、言い合いは何日か続いた。些細なことでもぶつかる。食器の置き場所、車の運転、さくらの保育園の送迎。夜になると、言葉数が減る。
そしてある夜。3人で夕食を囲んでいたとき、さくらが、ぽつりとつぶやいた。
「パパとママ、またケンカしてる?」
ふたりは黙ったまま顔を見合わせた。
「さくら、怖くないよ。でも……おうち、静かな方がいいな」
日奈子の目に涙が浮かび、俊介は箸を置いた。
「……ごめん。パパ、ちょっと頑張りすぎてたかも」
その言葉をきっかけに、ようやくふたりの心がほぐれはじめた。
その夜、久しぶりにふたりで話し合った。
「俺、会社に逃げてたかもしれない」
「うん……わかってた。ずっと寂しかった」
「アメリカに来たことが、俺たちを試してるのかもな」
「でも、さくらの前でまで、意地張るのやめよう」
「……うん」
翌日、俊介は在宅勤務を選んだ。仕事は滞った。でも、リビングでさくらの笑い声を聞きながらパソコンに向かう時間は、思いのほか悪くなかった。昼休みには、3人で簡単なランチをとった。会話は少しだけだったが、どこか柔らかかった。
その夜、さくらがまた言った。
「ねぇ、パパとママ、今日、ずっと笑ってた」
「そうだね」
「さくらね、アメリカ、ちょっとだけ、好きになってきたよ」
その言葉に、ふたりは思わず微笑んだ。
家族の歯車は、まだ完全にはかみ合っていない。でも、少しだけ音を立てて、動き出した気がした。