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第八章:すれ違う思いやり

「ママ、きょう英語で“ありがとう”って言えたよ」

夕食の席で、さくらがぱっと顔を上げて言った。

「ほんとに? すごいじゃん!」

俊介が嬉しそうに笑い、娘の頭をなでる。日奈子も微笑んではいたが、胸の奥に小さな波紋が広がっていた。

(この子……私より早く、この場所に馴染もうとしているのかもしれない)

俊介の仕事は本格化していた。出社は毎朝早く、帰宅は21時を過ぎるのが当たり前。在宅勤務も可能なはずなのに、彼は一度も家で仕事をしようとしなかった。

「会社の方が集中できるから」

そう言っていたが、日奈子は気づいていた。彼が“家庭から逃げている”ことに。

そして、週末になれば、彼は家族サービスとしてスーパーに付き合い、運転し、買い物にも協力してくれる。ただその目は、どこかぼんやりとしていた。平日の疲れを引きずり、心ここにあらず。優しいけれど、どこか“義務”のような優しさだった。

会話も、仕事の話ばかりだった。

「今週はレポートが3本。上司からのフィードバックもやばくてさ……」

「ふーん……大変だね」

「日本との時差があるから、夜中の会議も多くて……」

「……」

共通の話題がない。日本にいたときは、日奈子の職場の話も子育ても、そこには“接点”があった。でも今、俊介の仕事は彼女にとって異世界でしかなかった。英語の書類、海外の顧客、金融商品。

理解も共感もできず、ただ聞くだけ。愚痴を受け止めることも、しだいに苦しくなっていた。

その夜も、俊介はキッチンのカウンターに座って仕事の愚痴を話していた。

「ほんと、上司がさ、言うことコロコロ変わって……もう少し明確にしてくれないと」

「……ねぇ、もうその話、やめない?」

「え?」

「私、何もわからないの。あなたの仕事も、用語も、そこにいる人も」

俊介は口を閉ざした。沈黙が流れた。

「ごめん、仕事の話ばかりで」

「違うの。私が話を聞きたいのは、あなたが何を思ってるか、感じてるかであって……仕事の愚痴を垂れ流すことじゃないの」

その数日後、ついに日奈子は爆発した。

「あなたって、結局いつも“自分”ばっかり!」

「……なにが言いたいの?」

「こっちが限界でも、気づきもしない。毎日家を出て、英語の壁と戦って、子育てと戦って、孤独と戦って、それでも……あなたは“仕事が忙しい”で全部済ませるの!?」

「……じゃあ、どうすればよかったんだよ」

「帰ってくるなとは言ってない。でも、少しは見て。私がどんな顔して、どんな声で、毎日過ごしてるか」

俊介は言葉を失った。

その後、言い合いは何日か続いた。些細なことでもぶつかる。食器の置き場所、車の運転、さくらの保育園の送迎。夜になると、言葉数が減る。

そしてある夜。3人で夕食を囲んでいたとき、さくらが、ぽつりとつぶやいた。

「パパとママ、またケンカしてる?」

ふたりは黙ったまま顔を見合わせた。

「さくら、怖くないよ。でも……おうち、静かな方がいいな」

日奈子の目に涙が浮かび、俊介は箸を置いた。

「……ごめん。パパ、ちょっと頑張りすぎてたかも」

その言葉をきっかけに、ようやくふたりの心がほぐれはじめた。

その夜、久しぶりにふたりで話し合った。

「俺、会社に逃げてたかもしれない」

「うん……わかってた。ずっと寂しかった」

「アメリカに来たことが、俺たちを試してるのかもな」

「でも、さくらの前でまで、意地張るのやめよう」

「……うん」

翌日、俊介は在宅勤務を選んだ。仕事は滞った。でも、リビングでさくらの笑い声を聞きながらパソコンに向かう時間は、思いのほか悪くなかった。昼休みには、3人で簡単なランチをとった。会話は少しだけだったが、どこか柔らかかった。

その夜、さくらがまた言った。

「ねぇ、パパとママ、今日、ずっと笑ってた」

「そうだね」

「さくらね、アメリカ、ちょっとだけ、好きになってきたよ」

その言葉に、ふたりは思わず微笑んだ。

家族の歯車は、まだ完全にはかみ合っていない。でも、少しだけ音を立てて、動き出した気がした。

(続きはこちら)第九章:遠ざかる声、近づく理解