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第九章:遠ざかる声、近づく理解

朝7時半。俊介はネクタイを締めながら、最後の一口のコーヒーを飲み干した。

「じゃ、行ってくる」

それだけを残して、玄関の扉が閉まる。

日奈子は、もう「いってらっしゃい」と返すのをやめていた。さくらはまだ眠っていたし、朝の会話はずっと前から無音に近かった。台所の窓からは、淡い光が差し込んでいる。曇り空だ。今日は雨が降るかもしれない。

ここ数週間、俊介は一層、仕事に没頭しているようだった。日奈子には、それが「頑張っている」のではなく「現実から目をそらしている」ように思えた。

在宅勤務はほとんどしなくなった。夜遅くに帰宅し、食事をとり、さくらが寝たあとのリビングで黙々とPCに向かう。英語の資料、日本とのやりとり、グローバル会議。話題のすべてが、日奈子から遠い場所で起きていた。

「俊介って、何のために頑張ってるんだろう」

独り言のように、ふとつぶやいた。その答えは、彼自身にももう分かっていないのかもしれなかった。

午前10時、日奈子は英会話教室へ向かった。近所の教会で開かれるこの無料クラスには、韓国、ベトナム、コロンビア、エジプト、そして自分のような駐在妻ではない女性たちが多く通っていた。

彼女たちは、生活のために英語を学んでいる。就労許可を得るため、子どもたちの学校の先生と話すため、あるいはただ孤独を癒すため。

前回、ラーメンとキムチの話で盛り上がったミンと、日奈子は少しずつ距離を縮めていた。

その日、授業後に教会裏のベンチでふたりは並んで座っていた。

「あなたの旦那さんは、よく家にいるの?」

「ぜんぜん。毎朝早く出て、帰りも遅いよ。あなたは?」

ミンは小さく笑った。

「私も、似たようなもの。でも、私、もう慣れた。最初は泣いてたけど、今は……諦めたって感じかも」

「……それ、わかる。私も、最初の2か月くらいは本当に辛かった。今も辛いけど、ちょっと鈍感になったかも」

ミンは、水の入った紙コップをぐるぐると回しながら言った。

「でも、あなたの英語、伸びたよ。聞き取りも上手になってる」

「ほんとに? でも家では、日本語ばかり。夫とも、ほとんど会話がないから……」

ミンはそっと、日奈子の手を握った。

「あなたは、強い人。わたし、見ててそう思うよ」

その一言に、日奈子の目が潤んだ。

帰宅すると、さくらはテレビの前にいた。アメリカの子供向けアニメ。日奈子には理解できない速さの英語で、キャラクターたちがにぎやかに喋っている。さくらはその内容を理解しているのか分からないが、時折クスッと笑う。

さくらの方が、きっと前を見ている。自分はどうだ。慰められる動画、傷をなぞるブログ、同情し合うコミュニティ。すべてが、後ろ向きだった。

夜。

俊介が帰宅したのは21時半。

「ただいま」

「おかえり。ごはんは、レンジにあるよ」

いつものやりとり。そこにはもう、感情はなかった。

「……今週末さ、さくらと3人でどこか行かない?」

「え?」

珍しく俊介の方から、そんな提案があった。

「行こう、どこでもいいから。たまには、家族でちゃんと時間使いたいと思って」

「……いいよ」

短い返事をしながら、日奈子は少しだけ驚いていた。俊介の背中が、小さく見えた。彼もまた、何かを感じているのかもしれない。

その夜。ベッドに入り、さくらが眠りについたあと、日奈子はスマホを手に取った。

画面に表示されたのは、日本にいる旧友からのLINE。

「そっちはどう? なんか疲れてない? ニューヨークってキラキラしてそうだけど、大丈夫?」それを見て、日奈子は思った。

私、たぶん“駐在”に夢を見てた。キラキラした街並み、グローバルな生活、優雅な専業主婦。インスタやブログで見たあの世界。

でも今、実感する。

これは、幻想だった。

華やかさの裏にある孤独。家族間の温度差。育児と語学と、アイデンティティの喪失。

ここにあるのは、「選ばれし者の生活」なんかじゃない。

それは、まるで——

「呪い、だね」

声に出した自分の言葉に、思わずはっとした。

日奈子はスマホを伏せ、さくらの寝顔にそっと触れた。

「大丈夫。ママは逃げないよ」

でも、内心はまだ揺れていた。俊介は明日も、7時半には出ていく。ミンは明日も、英語を学びに教会に来る。

そして私は……ここで、何を積み重ねていくのだろう。それでも日奈子は、少しずつ前を見ようとしていた。

この呪いを、いつか越えられるように。

(続きはこちら)第十章:駐在という呪い