「けらけら」は、表通りからは全く存在が分からない。ミッドタウンの雑居ビルの地下、黒く塗られた鉄扉の奥にある。看板も目立たず、初めて訪問するお客さんは、お店を探すのに苦労をする。
扉の横には小さなインターホン。ボタンを押すと、監視カメラ越しに中のスタッフが確認し、ブザーが鳴るまで外で待たされる。
予約なしでは入れない完全紹介制。日本語のホームページがあり連絡先もあるが、ほとんどの客は出張者や駐在員が知人経由で紹介を受けてやって来る。
「おつかれさまです」「よろしくお願いします」「今日は出張で来られたんですか?」
私はいつものように、機械のような声で挨拶する。
この店は、笑顔ではなく『笑顔の仮面』を身につけて働く場所だ。
けらけらは、日本人向けのキャバクラの中では中級店だ。
同業には「UNAGI」という高級店もあるが、あちらはもっと上の層が相手。
けらけらは若い子が多く、短期で稼ぎたい女性が集まる。大学生、女優志望、ダンスのレッスン帰り、派遣の合間、あるいは私のような逃避者。理由はさまざまだ。
店内は薄暗く、高級感はあまりない。バーカウンターの奥にいくつかの個室があり、くたびれたソファと古いカラオケ機器。
流れる曲は昭和の定番。「少女A」「I LOVE YOU」「Runner」。
私は歌えない曲ばかりだが、酔った男性たちはそれを喜ぶ。
「あかねちゃんも、歌うの上手そうだね」
『あかね』はこの店での源氏名だ。
「いえ、私は…聞いてる方が好きなので」
笑ってかわす。顔の筋肉が勝手に『接客モード』に切り替わる。
写真は撮ってはいけないルール。知らない人が多いので、最初に説明する。
在籍は20人以上。本名を名乗る必要はない。身元確認も形だけで、違法滞在の子も多い。
私もそうだ。ESTAで入国してからビザの手続きはしていない。昼間は働いていないふりをし、夜だけ名前を変えて働く。
昼間はどう過ごしているかと聞かれれば…何もしていない。
語学学校に通ってはいるが、そこにいるのは企業派遣で来た日本人男性たち。商社、メガバンク、海外MBA…勝ち組の会話が飛び交う。
彼らが悪いわけじゃない。でも、私とは世界が違った。
ニューヨークに来た当初は、新鮮さに浮かれていた。
メトロポリタン美術館、MoMA、ニューヨーク公共図書館、ブロードウェイ。
けれど、すぐに行く場所がなくなった。
今は、自宅で本を読んだり、日本のドラマをネット配信で観たりするだけ。
何かを学ぶでもなく、誰かと会うでもなく、ただ時間が過ぎていく。
そんな中、ある夜、私は謙一のYouTubeを見つけた。
深夜1時、ワインを2杯とビールを1本飲み、少し涙が出たあとだった。
話しかけたいけれど、話す相手がいない夜。
動画のタイトルは「地下の部屋からNY配達へ」
暗い部屋で、無愛想な口調で、青いキャップをかぶった男が話している。
冴えないのに、どこかで『同じ匂い』がした。
衝動的だった。お酒の勢いもあって、私は彼にDMを送った。
数日後に会い、何度か会って、「付き合おう」と言われ、「うん」と答えた。
でも現実の謙一は、画面越しの『哀愁ある孤独な男』ではなかった。
中身が空っぽなまま膨らんだ風船のようで、恋愛経験もなく、距離感を測れない。
妙に愛情を演出しようとするその態度が、時に息苦しかった。
2回目のデートのあとから「オーちゃん」と呼ばれるようになった。
「オーちゃん、好きだよ」
「オーちゃん、今日もチョーかわいいね」
「オーちゃん、ずっと一緒にいようね」
気持ち悪くはない。でも、響かない。
手を繋ごうとする、肩を抱こうとする、キスをしようとする。
私の後ろ姿を動画に載せ、「NYカップルの日常」とタイトルをつける。
顔を隠しても、彼は撮り続けた。
ある夜、私のアパートに来た謙一は、自然な流れのように押し倒そうとした。
「…今日はやめてください」
私ははっきり言った。
彼は驚いた顔をしたが、それ以上は何もしてこなかった。
その後、けらけらで嫌なことが続いた。
客にセクハラまがいのことをされ、帰り道に小雨が降り、家に着いてワインを開け、どうでもよくなって──謙一に連絡した。
「今から来ない?」
あの夜の私は、心が壊れていた。
「好き」でも「抱いてほしい」でもなかった。
ただ「誰かに抱かれること」だけを、自分の存在の証明にしたかった。
謙一の手は不器用で、初めてだとすぐ分かった。
触れ方もリズムもぎこちなく、私は目を閉じ、何も考えず、ただ終わるのを待っていた。
心は完全に無だった。
翌朝、彼はもう一度求めてきた。
「オーちゃん……もう一回、いい?」
「無理です。ほんとにやめてください」
私は冷たく言った。
その瞬間、彼の顔に傷ついた色が浮かんだが、何も言わなかった。
カラオケの音と男たちの笑い声が漏れる夜の「けらけら」で、私はバーカウンターの隅に立ち、何も飲まずにグラスを磨いていた。
『どうしてここまで来たんだろう』─答えはもう探していなかった。