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第1章 グリーンカード、当たっちゃった

そのメールは、他の迷惑メールと一緒に、Gmailの「プロモーション」フォルダに紛れ込んでいた。
“Congratulations! You have been selected in the Diversity Visa Program 2019!”

Google翻訳にかけると──「おめでとうございます!あなたは移民ビザ抽選に当選しました」。

一瞬、何のことか分からなかったが、数秒後に思い出した。
──ああ、あれか。グリーンカードの抽選。

1年くらい前、退屈しのぎに「無料で応募できる」と聞いて、深夜のコンビニ帰りにネットで入力したやつだ。
証明写真は自宅の蛍光灯の下、スマホで自撮りしたテキトーな一枚。応募したことすら忘れていたのに、どうやら当たったらしい。

机の上には、食べかけのコンビニスナックと、500mlのペットボトルのコーヒー。
モニターには『パワプロ』の栄冠ナイン。控え投手が二桁失点を喫していて、俺は舌打ちを一つ。

「……うーわ、マジでゴミ采配」

メールを開く気にもなれず、右下に小さく表示された「中日 3 – 5 DeNA(7回裏)」のスコアをぼんやり眺めながら、ため息をつく。

俺の名前は田村謙一。
31歳。無職。実家暮らし。彼女なし。特技なし。未来もなし。
大学はなんとか出たが、いわゆるFラン。特筆すべきスキルも資格もない。
派遣、バイト、契約社員を転々とした末、1年前に完全な「フリー」になった。戦力外通告を受けても全く心に響かず、トライアウトを受けるでもない。

ハローワークには何度か行ったが、紹介されるのは時給の低い倉庫作業や電話営業ばかり。
履歴書も何度か書いたが、書けば書くほど、自分がいかに“何もない人間”かを突き付けられ、途中で破り捨てることが多かった。履歴書の資格欄は、自動車免許のみ。
まれに面接まで行っても、「結果は一週間以内にご連絡します」と言われたきり音沙汰なし。
届くのは、定型文のメールと『お祈り』の封筒ばかり。

「お前のとこがクソなんだよ」と独りごと。帰宅すると転職サイトにログインして、ネガティブな口コミを投稿する。
『面接官が高圧的』『人を見下す態度』『社員の質が低い』その言葉は、結局自分にも返ってくる。

挙句の果てには、捨てアドレスで社員になりすまし『残業込みでも給料低い』『ブラック企業』『社長糞』と書き込み、溜飲を下げる。

父は元・市役所の公務員。定年後は近所の分譲マンションで管理人のアルバイトをしている。真面目で温厚だが、俺にはあまり干渉しない。
休みの日はテレビで野球中継を観ながら、「菊池の守備はやっぱりいいなあ」と呟く。
俺と同じ中日ドラゴンズファン。理由は、子どものころに一緒にナゴヤドームに行ったからだ。

だから今でも、ニューヨークでもヤンキースではなく、青地に白い「D」のキャップをかぶっている。
山本昌や和田のニュースは追っていたが、ヤンキースの松井や田中には正直そこまで興味がなかった。

母は専業主婦で、朝昼晩の食事を欠かさず用意してくれる。風呂掃除も洗濯も全部やってくれる。
「働いて」「結婚して」とは言わないが、その目には『心配』がにじむ。
俺がこの歳まで何もできない人間になったことに、母なりの罪悪感を抱えているのだろう。
そしてその罪悪感が、俺をさらに甘やかす。

「今日は味噌カツ作ったよ。好きだったでしょ」
うなずきながら食べる。うまい。でも、何一つ返せていない。

金が尽きると、母に言えば3万円でも5万円でももらえる。
封筒を受け取り、その足で電車に乗り五反田の駅前にあるお気に入りのピンサロ嬢のもとへ行く。延長料金が惜しくて一度も延長したことはない。差し入れはコンビニスイーツや途中下車して百貨店で買ったチーズケーキ。
笑顔で「ありがとう」と受け取ってくれるが、本音は「また来たよ、中日帽のキモいオッサン」だろう。
それでも行くたび、心が少しだけ軽くなる。

そんな生活の中で、グリーンカードが当たった。
アメリカ、ニューヨーク。まるで映画の舞台だ。
何も持たない俺が、“選ばれた”と勘違いしても仕方ないだろう。いや、本気でそう思った。

「お母さん、ちょっと話あるんだけど……」
夕飯の後、母は黙って茶碗を洗う手を止めた。

「……俺、アメリカ行こうと思ってる。グリーンカード、当たった」
「……そう」

それだけだった。数日後、母は茶封筒を差し出した。中には100万円。
「好きにしなさい」

出発前日、お気に入りの嬢がいるお店がある五反田に向かい、ニューヨークへ行くことを自慢げに話した。お金に余裕があるので今回初めて延長した。振り向いてくれると淡い期待を持っていたが、タイマーの音が鳴った瞬間、お気に入りの嬢は何事もなかったかのように暗闇に消えていった。大きな爆音だけが響くソファーの上で、優越感と満足感に浸りながら。

次の日、俺はJFK空港にいた。
機内ではGoogleマップで「Brooklyn」の読み方を調べ、「ブルックリン」だと知る。
空港を出ると、2月のニューヨークは冷たく重い空気。吐く息が白く、言葉はすべて英語、どの電車に乗ればいいのかも分からない。AIRトレインを使いジャマイカ駅で乗り換え、地下鉄Eラインに乗車した。

大きな荷物を抱えたままタイムズスクエアに着き、眩しいネオンの下でブレた自撮りを撮り、Instagramに投稿した。
「NY到着!ついに人生スタート!」

フォロワーは6人。いいねは1件。
母からだった。

(続きはこちら)第2章:地下の部屋と、三軒茶屋の記憶

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