晩夏のニューヨーク。
街路樹の葉はうっすら黄ばみ、ブライアントパークの芝生は乾いて色あせていた。
カフェテーブルの上には小さな枯れ葉が一枚だけ乗り、湿った風がビルの谷間を抜けていく。
遠くで消防車のサイレンが、ミッドタウンの喧騒に溶け込んで消えていった。公園の入り口にある売店では、ホットココアを求める観光客の行列ができていた。
謙一は、何度もしつこく会おうとしてきた。
LINE、Instagram、SMS─すべて無視した。
なのに、ある朝、アパートの前に立っていた。中古の自転車が壁にもたれかかっていた。
青いキャップをかぶり、伸びかけの髪。
「たまたま近くに来て」と言ったが、よれよれのバッグの中には、前にくれたのと同じ日本のお菓子が入っていた。ひとつ4ドルのようかん…
ずっと出てくるのを待っていたに違いない。
別の日には、朝7時30分過ぎにブザーが鳴った。
「配達のついでだった」と言ったが、そんな時間に来る配達などない。何度も何度もブザーを押されたが、私は出なかった。
静かに、アッパーウエストにある自分の部屋を引き払う準備を進めた。
段ボールの中に服を詰め、壁に貼っていたポスターや写真をはがす。
引っ越し業者が最後の荷物を持って行く。ベッドサイドにおいてあったランプを消した瞬間、部屋が急に『空き家』の匂いになった。
ニューヨークを離れる前にお店に立ち寄った。けらけらのママは肩を引き寄せ、その後私を抱きしめ、心配してくれた。
「詩織ちゃん、ほんとはずっと無理してたよね」
「もっと早く話してくれたら、何か変わってたかもしれないのに」
優しい言葉だった。
でも私は首を横に振った。
「ありがとうございます。でも…たぶん、変わらないほうがよかったんだと思います」
ニューヨークには、ちゃんと生きている女性たちがいた。
けらけらのママもお店の仲間も、時々過去を振り返りながら、厳しい現実の中で前を向いて手を伸ばしていた。
でも私は、ずっと過去ばかりを見ていた。今ある現実からも逃げていた。
謙一とのニューヨークでの思い出は、すべて削除した。
LINEの履歴、動画、Instagram。
最後に残っていた「父になります」の段ボール写真も、迷いなくゴミ袋へ入れた。
その夜、不意に涙が出た。
けれどそれは謙一への感情ではなく、自分自身への情けなさだった。
この街は何もくれなかった…そう思っていたけれど、違った。
自分の家族はちゃんと心配してくれた。
けらけらのママは最後まで話を聞いてくれた。
謙一だけが、何もくれなかった。
私はようやくそれに気づき、そして、この街を離れる準備が整った。