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第2章 地下の部屋と、三軒茶屋の記憶

謙一

俺が住んでいるのは、ローワーイーストサイドの外れ。中華街の端、エリザベス・ストリート沿いの古い雑居ビルだ。
観光客が行き交うチャイナタウンの中心から数ブロック離れただけで、通りの雰囲気は一変する。看板は色あせ、ビルの壁面にはクラックが走り、窓の外に洗濯物がはためいている。聞こえてくる言語は、英語以外の方が多い。中国語、スペイン語、どこかわからない言葉。日本語はほとんど聞こえてこない。

5階建てだがエレベーターはない。築80年を超えるレンガ造りのアパートメント。急な階段を息を切らしながら上がると、その先に月1,200ドルの狭い部屋が現れる。シャワー、トイレ、キッチンは共同で、部屋は全部で4つ。
住人は俺を含めて4人だが、会話があるのは俺以外の3人だけ。新参者だからかと思ったが、住人が入れ替わっても状況は変わらなかった。

朝、キッチンで顔を合わせれば軽く「Hey」と声をかけられる程度。
それ以上はない。俺も話す気はないし、そもそも、英語がろくにできない。

冷蔵庫には、マジックで名前を書いたジップロックや牛乳を入れ、用事が済めばすぐ部屋に戻る。
窓から見えるのは、隣のビルの外壁と、下を行き交う八百屋のトラック。夜になると、魚市場から戻ってきたらしい人々の声が階下から響いてくる。

洗濯機も乾燥機もない。
週に2回、徒歩7分のマルベリー・ストリートにあるコインランドリーに通う。
店内は黒人、中南米系、アジア系の移民たちでいっぱいだ。乾燥機の回転音と洗剤の香りが混ざり、どこか懐かしいような、それでいて落ち着かない空気が漂っている。
中には小学生くらいの子どもが母親と一緒に洗濯物をたたんでいた。

そこに、明らかに浮いた存在。青い「D」マークの中日ドラゴンズ帽をかぶった俺がいる。

先進国である日本から来たはずなのに、今や“異国の最底辺”で生活している実感があった。

収入源はUber Eats。アプリさえあれば誰でもできる。もちろんライセンスなんていらない。
中華街のリサイクルショップで購入した中古のクロスバイクはギアが1速から動かず、ブレーキも甘い。それでも、背中に緑色のUberバッグを背負えば「働いてる感」は出る。

配達先の9割は無言。
ドアを開けて受け取る人もいれば、「玄関に置いて」とだけドア越しに叫ぶ客もいる。
アプリで配達完了ボタンを押し、玄関先の写真を撮って送信して終わり。

「Thanks」の一言もないまま、ドアが閉まることも多い。
チップはアプリ経由であとから入るが、『Tip: $0.00』という表示を見るたびにスマホに悪態をつく。

「ケチすぎるだろ……お前んち、家賃いくらだよ」

スーツ姿の男と、髪をきれいに巻いた女性。明らかに育ちの良さそうなカップルがドアを開けたことがあった。受け取りはスーツ姿の男で、後ろからGo proをもった女性が受け取る瞬間を撮影していた。
俺が「どうも」と声をかけても、男は目を合わせず商品を受け取り、無言でドアを閉めた。

間違いなく日本人だった。
でも彼らにとって俺は、日本語で話しかける対象じゃなかった。『現地の下層労働者』、せいぜい中国人配達員に見えたのかもしれない。

閉じられたドアの向こうから聞こえてきた。

『今日はUber Eats頼んでみました!』

夜は、ベッドに横たわりながらスマホで裏風俗を検索する。
『NYC Korean Escort』『地下デリヘル』。それらしい店は出てくるが、最低300ドルから。とても行けない。
結局イヤホンでセクシービデオを見て、静かに処理するだけ。

誰にも気づかれず、誰にも求められないまま、眠りにつく。

詩織

三軒茶屋の裏通りにある実家は、駅から徒歩7分の2階建て一軒家。ガレージにはハイブリッドのBMWとベンツ。
玄関先には、母の好きなクレマチスの鉢植えが季節の花を咲かせている。

父は駅前で内科クリニックを経営し、母は専業主婦。
兄が二人いて、どちらも私立の医学部を卒業して医者になった。

私は末っ子で、当然のように「医学部志望」として育てられた。
通っていたのは、進学実績を誇る都内の中高一貫校。学校に進学実績の掲示などない。東大も医学部も“当たり前”という空気の中で6年間を過ごした。

現役では私立の医学部に狙いを絞り、8校中2校に補欠合格したが、補欠合格はともに最終的には不合格。
それから渋谷の医学部専門予備校に通うことになった。年間授業料は400万円超、模試や夏期講習を合わせれば600万円近く。

1浪目にも補欠合格が複数でたが、最終的には不合格となった。2浪目には成績が下がり始め補欠合格すらなくなっていった。3浪目で自分でも「無理だ」と分かった。それでも止まれなかった。
同級生は就職活動を始め、商社、銀行、海外大学院とそれぞれの道へ進んでいった。
SNSで流れてくる楽しそうな大学生活や旅行写真を見るたび、スマホを伏せた。

予備校でできた彼氏は明るくまじめな人だった。夢を語り、努力する姿がまぶしかった。
でも私は、その光の外に落ちていた。

25歳の春、医学部を諦めた。
親のコネで都内の病院に事務として就職したが、どこも長続きしなかった。
何かが壊れていた。

30歳を目前に、「留学しようかな」と口にした。
本当は留学が目的じゃなかった。競争からも比較からも逃げたかっただけ。

英語はある程度できた。ボストンやトロントに短期留学した経験もあり、受験勉強でも必死に覚えた。
それでもニューヨークに着いた時、太刀打ちできなかった。

到着から1か月後、日本人女性の先輩に紹介されたのがミッドタウンの日本人向けラウンジ「けらけら」だった。
ビザがなくても働けると聞いた。そこには夢を追う子もいれば、生活のために働く子もいた。

私は…ただの、医者の娘の逃避行だった。

(続きはこちら)第3章:微分のプリント、破れてた