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第8章 誰にも見られていない

「もしかしたら…流産かも」

自分の口から出た声が、自分のものじゃないように感じた。
その朝、目覚めたときから体が重く、けらけらのシフトは休みにした。
熱はない。でも、下腹部に妙な重さと鈍い痛みがあった。

冷蔵庫から水を取り出そうとした瞬間、腹の奥をぎゅっとつかまれたような痛みが走った。
息が止まり、膝が折れる。床に手をつき、冷たいタイル越しに指先が震えた。

「たった一度だけだったのに」

心の中でそう呟いても、何も変わらなかった。

妊娠がわかったとき、謙一は子どものように舞い上がった。
ブライアントパークで育児本を買い、おもちゃ屋でガラガラを選び、YouTubeに「父になります」と書かれた段ボールを掲げた。
顔は映さなかったが、最後に「オーちゃんが妊娠しました」と言ったとき、私は画面を閉じてベッドに倒れ込んだ。

あれは喜びではなく、むしろ恐怖だった。
避妊をしなかった無神経さと、そのあと軽々しく未来を語る無責任さ。
胸の奥に、鋭い嫌悪感が広がっていた。

UBERでタクシーを呼び、病院へ向かう。
マンハッタンの通りは午後の光に照らされ、ガラスのビルに雲の切れ間が映っていた。
歩道では観光客がマップを広げ、子どもを肩車した父親が笑っている。
バスが停まるたび、排気ガスのにおいとエアブレーキの音が重なった。

この日訪問した日系の病院の待合室は冷房が強く、壁には淡い緑のペンキ。
ニューヨークで長年医師として活躍している、優しい目をした女医の貴美子さんが言った。診察の結果は「自然流産の可能性が高い」。処置は不要だが、様子を見るようにと言われた。何かあったら、いつでもおいでねと言い残し。

外に出ると、街はいつも通り動いていた。
通りの先にはクライスラービルの鋭い屋根が夕日に光り、ビル風にあおられたエコバッグがカサカサと鳴っている。
でもその景色は、全部『他人の人生』のように遠く感じた。

帰宅後、私は日本の母に電話した。
「日本に、一回帰ろうと思う」
母は理由を聞かず、「分かった」とだけ言った。

翌日には父からLINEが届いた。
「空港まではタクシーを手配した。運転手はJamesさん、日本語が通じるから安心して」

一時帰国。ただし、ニューヨークに戻るかは決めていなかった。
謙一には「しばらく家族に会ってくる」とだけ送った。

「うん、ゆっくりしておいで」
彼は笑って言った。その笑顔の裏で、俺を花嫁のように思っているのかもしれなかった。

空港へ向かうタクシーの窓から、マンハッタンのスカイラインが遠ざかっていく。
橋を渡ると、ビル群の間に夕陽が沈みかけていた。
エンパイアステートビルの赤いライトが、まだ明るい空に灯っていた。

私は泣かなかった。
けれど、心の奥は真空のように空っぽだった。

一方その頃、謙一は実家に電話をしていた。

「オーちゃんが妊娠してさ。結婚も考えてる」

父と母は驚きながらも喜び、「NYに行かせてよかったわね」「少しは成長したのね」と口を揃えて喜んだ。
だが電話を切ったあと、母は送金口座の残高を見ながら、小さくため息をついた。
「いつまで仕送り続けるのかしらね…」

謙一は、オーちゃんが家族に説明して祝福され、また戻ってくると本気で信じていた。
LINEを送っても既読だけがつき、返事がないことも「きっと実家で忙しいんだろう」と勝手に解釈した。

その日の夜、彼は短い動画を撮った。
青いDのマークがついたキャップをかぶり、笑顔でカメラに向かって言う。

「お給金欲しいので、チャンネル登録、いいねお願いします!」

その言葉が、彼の唯一の“社会とのつながり”だった。

(続きはこちら)第9章:私、戻っても違う人です