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第9章 私、戻っても違う人です

JFKを離陸してからの13時間、ほとんど眠っていた。
体調を心配した母が手配してくれたJAL最新鋭飛行機(エアバスA350-1000)のビジネスクラス。
革張りのシートをフルフラットに倒し、エアウィーブを敷いて、薄いブランケットにくるまる。
外の窓には、真っ黒な大西洋と星のない空が広がっていた。
目を閉じながら、「もう戻ってこられないかもしれないな」とぼんやり思った。

羽田空港。
朝の湿った空気が肌にまとわりつき、喉の奥に懐かしい『日本の匂い』が広がった。
到着ゲートを抜けると、黒いハイヤーが待っていた。
ドライバーは白い手袋をはめ、つば付きの帽子をかぶった中年男性。
その横には母が立っていた。

「おかえり」

それだけ言って、私のスーツケースをドライバーに預けた。
ハイヤーの後部座席に並んで座る。
窓の外では、朝の通勤ラッシュで人が駅へ吸い込まれていく。
車内は静かで、母は妊娠や流産のことには触れず、
「この前の大河ドラマ、まあまあ面白かったよ」
「駅前のケーキ屋さん、閉店しちゃったのよ」
…そんな他愛のない話をしてくれた。
そのやりとりに、胸の奥でじんわりと温かいものが広がった。

世田谷にある実家の玄関をくぐった瞬間、湿った畳の匂いと、母が朝炊いたごはんの香りが混ざった空気に包まれた。
靴を脱ぎ、深く息をつく。
リビングのソファには父が座って新聞を読んでいた。
「おかえり」とだけ言い、視線を戻す。
その何気ない態度が、私を逆に安心させた。

スマホの電源を入れると、通知が一気に溢れ出す。
LINE、Instagram、YouTube
その中に、謙一からのメッセージが立て続けに表示された。

【オーちゃん、どうだった?】
【俺のこと、ちゃんと話してくれた?】
【結婚のこと、前向きに伝えた?】
【赤ちゃんの名前もまた一緒に考えようね!】

画面を見て、そっと伏せた。
家族の穏やかな空気と、あまりにも違いすぎた。

夜、兄たちが家に来た。
二人とも既婚で子どもがいる。仕事の合間を縫って、わざわざ帰ってきてくれた。
テーブルには母の作った肉じゃがと鯖の味噌煮。それに出来立ての白いご飯。
みんなで食卓を囲むのは何年ぶりだろう。
笑い声や箸の音が心地よく響く中、兄たちは何も直接は聞かなかった。

「無理するなよ」
「いったん距離を取ったほうがいいかもな」

優しく包んだ言い方。
それが家族全員の共通認識だと分かって、胸が少しだけ締めつけられた。

慣れ親しんだ自分の部屋に戻る。
机の引き出しには、高校時代のノートや模試の結果表。
壁には、色あせた進学予定表。
参考書の間から、元彼と撮ったプリクラが出てきた。
制服姿の自分が笑っている。

「あの頃の私は、本気だったな」

あの人も、本気で私を応援してくれていた。
失敗しても、バカにせず、黙って隣にいてくれた。
…謙一とはまるで違った。

翌朝、障子越しに入る光で目が覚めた。
何も変わらない実家の朝の匂いと音。
でも、自分の中ではもう何かが完全に変わっていた。

私は、もう『あのときの私』には戻れなかった。

(続きはこちら)第10章:ニューヨークで一番フォローされない男