JFKを離陸してからの13時間、ほとんど眠っていた。
体調を心配した母が手配してくれたJAL最新鋭飛行機(エアバスA350-1000)のビジネスクラス。
革張りのシートをフルフラットに倒し、エアウィーブを敷いて、薄いブランケットにくるまる。
外の窓には、真っ黒な大西洋と星のない空が広がっていた。
目を閉じながら、「もう戻ってこられないかもしれないな」とぼんやり思った。
羽田空港。
朝の湿った空気が肌にまとわりつき、喉の奥に懐かしい『日本の匂い』が広がった。
到着ゲートを抜けると、黒いハイヤーが待っていた。
ドライバーは白い手袋をはめ、つば付きの帽子をかぶった中年男性。
その横には母が立っていた。
「おかえり」
それだけ言って、私のスーツケースをドライバーに預けた。
ハイヤーの後部座席に並んで座る。
窓の外では、朝の通勤ラッシュで人が駅へ吸い込まれていく。
車内は静かで、母は妊娠や流産のことには触れず、
「この前の大河ドラマ、まあまあ面白かったよ」
「駅前のケーキ屋さん、閉店しちゃったのよ」
…そんな他愛のない話をしてくれた。
そのやりとりに、胸の奥でじんわりと温かいものが広がった。
世田谷にある実家の玄関をくぐった瞬間、湿った畳の匂いと、母が朝炊いたごはんの香りが混ざった空気に包まれた。
靴を脱ぎ、深く息をつく。
リビングのソファには父が座って新聞を読んでいた。
「おかえり」とだけ言い、視線を戻す。
その何気ない態度が、私を逆に安心させた。
スマホの電源を入れると、通知が一気に溢れ出す。
LINE、Instagram、YouTube
その中に、謙一からのメッセージが立て続けに表示された。
【オーちゃん、どうだった?】
【俺のこと、ちゃんと話してくれた?】
【結婚のこと、前向きに伝えた?】
【赤ちゃんの名前もまた一緒に考えようね!】
画面を見て、そっと伏せた。
家族の穏やかな空気と、あまりにも違いすぎた。
夜、兄たちが家に来た。
二人とも既婚で子どもがいる。仕事の合間を縫って、わざわざ帰ってきてくれた。
テーブルには母の作った肉じゃがと鯖の味噌煮。それに出来立ての白いご飯。
みんなで食卓を囲むのは何年ぶりだろう。
笑い声や箸の音が心地よく響く中、兄たちは何も直接は聞かなかった。
「無理するなよ」
「いったん距離を取ったほうがいいかもな」
優しく包んだ言い方。
それが家族全員の共通認識だと分かって、胸が少しだけ締めつけられた。
慣れ親しんだ自分の部屋に戻る。
机の引き出しには、高校時代のノートや模試の結果表。
壁には、色あせた進学予定表。
参考書の間から、元彼と撮ったプリクラが出てきた。
制服姿の自分が笑っている。
「あの頃の私は、本気だったな」
あの人も、本気で私を応援してくれていた。
失敗しても、バカにせず、黙って隣にいてくれた。
…謙一とはまるで違った。
翌朝、障子越しに入る光で目が覚めた。
何も変わらない実家の朝の匂いと音。
でも、自分の中ではもう何かが完全に変わっていた。
私は、もう『あのときの私』には戻れなかった。