「ただいまー!」
玄関のドアを開けると、夫の雄大がいつもの笑顔で振り返った。新婚旅行以来の、いや、それ以上の非日常が、私たちの目の前に広がっていた。
今回、駐在員としての赴任で初めて乗ったビジネスクラス。ウワサには聞いていたけど、まさか自分がその『完全に横になれる』席に座れる日が来るとは思っていなかった。ANAのビジネスクラス専用のラウンジからしてすでに違っていて、カレーもワインも「無料」で出てくるし、搭乗したらすぐにウェルカムドリンクのシャンパン。
CAさんが「稲本様、NYまで約12時間、どうぞごゆっくり」と微笑む。
まるで、私が『選ばれた人』になったような気がした。
アメニティを宝物みたいに並べて、夢中でシャッターを切った。
「え、これ機内食?」と声に出してしまうくらい、ちゃんとしたコース料理。
「ねぇ、ゆーちゃん、動画も撮っといて!」
「……やれやれ。はい、キラキラ・カップル、いっきまーす」
そう、私たちはNY赴任と同時に、『YouTuber夫婦』としてもデビューした。
チャンネル名は『キラキラ・カップル』。
海外駐在のリアルな生活を発信する、という建前。でも正直なところ、「リアル」というより『盛ったリアル』を届けるつもりだった。
初投稿は「【夫婦でNY移住】ビジネスクラスでアメリカへ!機内食レビュー&新居紹介」
顔は隠してるけど、雰囲気はしっかり伝える構成。「#商社マンとの暮らし」「#ゆーちゃんとゆーか」など、インスタとも連動したタグ戦略は完璧。
「私たち、完全に時代に乗ってるよね?」
雄大は苦笑いしながら、カメラのバッテリーを交換してくれた。
新居は、マンハッタンの中心にある築浅のコンドミニアム。1ベッドルーム、白を基調とした清潔感のある内装。もちろん、会社が用意してくれた家具付き。引っ越しと同時に、リビングのソファに白いブランケットを巻いて、そこに自分のクッションを並べた。
「#NYインテリア」「#ホワイトライフ」でタグを付けたい構図が、すでに頭の中にあった。
最初にやったのはWi-Fiの接続と、iPhoneのSIM設定。そして、インスタグラムの名前を変更すること。
@yuuka.nyc
日本では使っていなかった『NYC』をつけただけで、アカウントの雰囲気がガラリと変わった気がした。
その夜、優雅な食卓…とまではいかなかったけど、Trader Joe’sの冷凍ラザニアをオーブンに入れて、スーパーのサラダを白い皿に盛りつけた。でも、冷えた白ワインの一口目で、「ニューヨークに来たんだ」と実感が胸にしみた。
SNS用には、フォロワーが憧れるような食卓に見せたくて、キッチンでサラダを盛り付けている自分を「それっぽく」撮って、『NY生活1日目。Trader Joe’sのラザニアが美味しすぎる件。』
#駐在妻ごはん #海外生活スタート
という文言を添えて投稿した。
数時間後には「いいね」が30を超えた。
「憧れです!」「素敵な生活始まりましたね!」そんなコメントが並んでいく。
あぁ、これが『承認される』ってことなんだ。
大学時代、サークルの中でポジションを取り損ねた私が、ようやく手に入れた『舞台』だった。
翌日、雄大は朝7時にスーツで出社した。ウォール街にある取引先との初会議だと言う。ベッドから身を起こし、私はカーテンを開けた。
「うわぁ…」
マンハッタンの灰色のビル群のすき間から、オレンジ色の朝日が零れ落ちていた。スマホを構えて、連写。露出を調整して、彩度を少し上げた。
『#朝のマンハッタン #NewYorkLife #駐在妻の朝』
投稿ボタンを押したあと、私は鏡の前で一息ついた。
「こんな朝が毎日続いたら、私、きっと『勝ち組』だよね」
誰に言うでもなく、ふっと笑った。
午後は近所のWhole Foodsへ。食材を買うためというよりは、写真を撮るため。Trader Joe’sで買ったエコバッグにWhole Foodsで買った花を挿して、『生活感のある幸せ風景』を演出した。
すれ違う外国人の観光客に「Wonderful bag」と言われて、嬉しかった。だけど、本当は何を言われたのか分かっていない。笑顔でうなずいて、そそくさとレジに向かった。
「ねぇ、雄大。Whole Foodsって、日本で言うとどのレベルのスーパーなの?」
夕方、チャットで夫にそう聞いた。
「成城石井の2倍くらいじゃない?」という返信に、私は『成城石井風高級スーパーで買い物してきました♡』という投稿文を思いつく。
【New Post】
📍Whole Foods Market
🛒今日の#駐在妻ルーティン
✔︎花を飾る
✔︎NYの空気を感じる
✔︎高級スーパーで買い物してみた
「#駐妻ライフ」「#海外生活」「#ゆーちゃんとゆーか」「#Whole Foods」
投稿後、リビングの床に座って、スマホを抱えて「いいね」が増えるのをじっと見ていた。画面の中では、私の生活がどんどん『華やかに』なっていく。そして、それを褒めてくれる人がいる。認めてくれる人がいる。本当に、こんな生活が現実なんだ。そう思いたかった。
でも、ふと気づく。
私は、まだこの街で誰とも話していない。雄大以外の誰とも、笑っていない。
けれど、「友達なんて、あとから作ればいいんだし」
そう呟いて、自分をなだめた。
そして、またスマホを構えた。
『今日のコーデ』を撮るために。