「最後の一枚も撮らずに終わるのも、悪くないよね」
セントラルパークのベンチで、そう呟いたのは私だった。
季節は夏の始まり。
日差しはじりじりと肌を照らし、芝生の緑は一層濃く、
噴水のしぶきが風に乗って、そっと頬をなでていく。
スマホも、カメラも、持ってこなかった。
手にしていたのは、屋台で買った5ドルのマンゴーの盛り合わせ。
透明のプラスチック容器に詰められた果肉を、木のフォークでひとつずつ口に運ぶ。
冷たくて、甘くて、ただそれだけ。
なのに、心がじんわりとほどけていくようだった。
誰に見せるでもなく、
『映える角度』を探すこともなく、
ただ、味として感じている自分に気づく。
ふと目が合った老夫婦に微笑みかけられ、
思わず「Good morning, how are you today?」と返した。
たった一言の挨拶が、こんなにも気持ちいいなんて。
最近、スーパーはTrader Joe’sばかり。
以前の私は、Whole Foodsでカラフルな洗剤や高級チーズを選んで、
「おしゃれな生活」を投稿するための『道具』にしていた。
でも今は、必要なものだけ。
値段と味を見て、無地のパッケージを手に取る。
「それでいい。今の私は、それでいい」
自然と、そう思えるようになっていた。
そして今夜は、久しぶりの外食だった。
Keens Steakhouse。歴史ある老舗のステーキハウス。
分厚く焼かれたポーターハウス。
天井から吊るされた無数のパイプ。
壁一面に飾られたモノクロ写真。
熟練の店員が静かに料理を運ぶ所作。
カメラは、持っていかなかった。
ビデオも撮らなかった。
SNSも、開かなかった。
ただ、目の前のステーキの香ばしさと、
「美味しいね」と微笑む雄大の顔と、
店員とのちょっとした会話だけを、大事に味わった。
「あたたかくて、美味しかったね」
「うん、最高だった」
「今度来たら、フィレにしようかな。また一緒に来ようよ」
「……それ、いいね」
投稿しない、記録されない、非公開の思い出。
でもそれは、確かに『本物の私たち』の時間だった。
帰り道、突然雨が降ってきた。
パークアベニューのアスファルトが濡れ、街灯が反射して光る。
ふたりでビルの隙間に駆け込んだとき、ふと空を見上げると、小さな虹がかかっていた。
何度もカメラを向けた構図。よく知っている『映える』景色。
でも、今はスマホを出さなかった。
「……ねぇ、見て」
「うん、虹が出てる。綺麗だね」
「虹の向こうにお月さまもいる。なんか、いいね」
そのとき私は、はじめて、 『画面の中』ではなく、『目の前の彼』と、景色を見ていた。
夜。
リビングのソファで並んで座って、最後に編集していた動画をふたりで見返した。
「これ、どうする?」
「……投稿、しない。もう、しない」
「うん。いいと思う」
「ちゃんと、終わらせたい。今度こそ、自分の言葉で」
深夜、MacBookを開いて、静かにタイピングを始めた。
『さようなら、キラキラを演じていた私』
私は、これでSNSを終えることにしました。
キラキラと呼ばれる生活を、私は確かに演じていました。
でも、その中にも幸せはありました。あの頃の私も『嘘』ではなかったと思います。
けれど、いつからか、誰かに見せるための私しか存在できなくなっていた。
誰かに評価されるために呼吸するようになっていた。
これからは、自分の人生を、自分の言葉と時間で取り戻していきます。
画面の中ではなく、日常のなかで。
誰かに見せなくても、愛せる毎日を、もう一度。
見てくださった皆さん、ありがとうございました。
そして——さようなら。キラキラを演じていた私。
投稿ボタンを押したとき、胸の奥がぽつんと温かくなった。
それは、終わりの悲しみじゃなかった。
静かに始まっていく、新しい日々の合図みたいなものだった。
寝室に戻ると、窓の外にはまだ月が出ていた。
「さっきの月、きれいだったね」
「うん。でも、一緒に見たから、きれいだったんだと思う」
彼の言葉に、小さくうなずいた。
画面に映っていた笑顔より、今の自分のほうが、ずっと好きだった。
私はもう、「いいね」の数では生きない。
フォロワーに認められるために呼吸するのも、今日でやめた。
この街の音も、においも、風も、なにも変わらない。
でも私は、確かに変わった。
そして今、その変化を誰にも見せずに生きていけることが、なによりの、贅沢だった。