「ご主人、どちらの商社なんですか?」
ランチ会が始まって10分もしないうちに、その質問が飛んできた。 問いかけてきたのは、エルメスのスカーフを巻いた『駐妻ベテラン風』の女性。
笑顔は穏やかだけど、目の奥に油断のない鋭さがある。
「えっと……総合商社の丸紅です」
「やっぱり。うちの主人、伊藤忠なんですけど、たぶん知り合いですね〜。もしかして、旦那さん繊維本部?」
「あ、たぶん、はい…」
その言葉に、隣の女性がすかさず反応する。
「もしかして、山崎さんと同期じゃない? うちの夫、山崎さんと昔一緒にボストンのMITに社費留学に行ってたのよ〜」
はい、始まりました。
これが『駐妻会』という、静かだけど火花が散る戦場。
今日の舞台は、Angelina Paris Bryant Park。ブライアントパークのすぐそば、ココアとクロワッサンが有名な、『駐妻会御用達カフェ』。
隣にはニューヨーク市立図書館があり、徒歩圏内には紀伊國屋書店、日系スーパー、無印良品も揃っている。
ミッドタウンで最も日本人駐在妻が集まりやすいエリアだ。
私は、インスタでつながった『あやかさん』という同年代の女性に誘われて初参加した。
彼女は2年前からNYに住んでいて、旦那さんは日系マスコミ勤務。住まいはブルックリン。子どもはいないらしい。
「旦那の会社、最近またやらかしててさ。ボーナス減っちゃって…」
と笑っていたけれど、内心では『私の方が勝ってる』と、うっすら感じていた。
この日集まったのは8人。
全員がブランドのバッグと指輪を身につけ、CHANEL、Dior、HERMESのロゴが自然に視界に飛び込んでくる。
「優香さん、どちらにお住まい?」
「ミッドタウンの1ベッドルームです。会社が手配してくれて」
「いいなぁ〜、夫婦でこっちって、商社くらいしか無理だよね。うちは子どもいるから、郊外の一軒家だけどさ」
「ご主人、日系?外資?」
「うちは日系IT。でも、前に外資いたから英語はわりと話せる方かも」
「そっか〜、じゃあグローバル枠で現地採用されたやつかな?」
誰かが話すと、誰かが上書きするように話をかぶせる。
その流れの中で、『所属』と『ランク』がナチュラルに確定していく。
ランチの注文が終わると、全員がスマホを手に取った。
「これ、ストーリーあげよ〜♡」
「もうちょっと、クロワッサン寄せたほうが映えるかも!」
「ココアの泡がつぶれてない方がいいから、早く撮って〜」
撮影タイムは5分以上続き、実際に食べ始めたのはそれからだった。そして、食べきった人は誰もいなかった。
明らかに『写真映え』のためだけに頼んだ量だった。
あやかさんの皿には、クロワッサンがほとんど残ったままだった。私の皿も、写真を撮った後は3分の1だけ食べて、あとはそっとナプキンで覆った。
「優香さんって、YouTubeもやってるって?」
「はい、『キラキラカップル』っていうチャンネルで夫婦でやってます。NY生活の記録がてら」
「わかる!あの、ビジネスクラスの動画見た〜!」
「この前私ファーストクラスに乗ったけど、ビジネスで十分よね。」
「あれめっちゃ再生回ってたよね。どこで撮ってるの? 編集も自分で?」
少し盛り上がるものの、話題の中心にならないよう、あえて引くことでバランスを保つ。
目立ちすぎると、やっかみの対象になる。でも、『話題に入れない人』にもなりたくない。
そういう、繊細な均衡の中で駐妻会は回っている。
話題は、徐々に人間関係に移っていく。
「この前、佐々木さんの奥さんとランチしたのよ〜」
「あっ、私、前の駐在で森本さんと仲良かったかも!」
「塚本さんの奥さん、最近ブランド買いすぎって噂だよね〜。旦那さん、そんなにもらってないのにって」
名刺はないけど、肩書きとつながりだけで人が『格付け』されていく空気。私はまだその輪に入っていない『新入り』だけど、商社の夫がいる、ミッドタウン在住、子どもなしで自由時間あり、SNSフォロワーが増え始めてる、という点で、明らかに『下』には見られていないと感じた。
あやかさんとは、実際に会ってみると想像より距離があった。インスタでは「早く会いたい♡」と何度もDMを送ってくれていたのに、 席が離れてからは、私とはほとんど会話しなかった。
「優香さん、今度一緒に紀伊國屋と無印良品か行こうよ〜!」
と口では言ってくれたけど、それが本気かどうかはわからなかった。
帰宅後、私はスマホを開いて、ランチ会の写真を編集した。 ココアとクロワッサンが映えるように、彩度を上げて、背景をぼかす。他の人の姿はすべてカットして、笑顔の私だけを切り抜いた。
【Today’s Lunch】
NYで素敵な出会いがありました♡
ブライアントパークのすぐ近くのカフェで。
駐在って、本当に出会いの宝庫。
#NY駐妻ランチ #AngelinaParis #海外生活 #キラキラカップル
写真を撮っただけで、人と心が通った気になっていたのかもしれない。でも実際には、話した内容も、誰の名前も、頭に残っていなかった。
なのに、投稿には「楽しそう!」「羨ましい」のコメントが並び、 私はそのすべてに『いいね』を押していく。
その夜、ベッドの上で雄大にポツリと言った。
「ねぇ……友達って、どうやって作るんだっけ?」
「え、何? 今日楽しかったんじゃなかったの?」
「うん、楽しかったよ」
そう答えながら、自分の声が、どこか空っぽに感じられた。