その人のアカウントが消えたのは、本当に突然だった。
朝食を撮ってストーリーを上げたあと、いつものように『チェック対象』のアカウントを順番に見ていた。その中のひとつ、「mariko_in_nyc」にアクセスしようとしたとき、画面に表示されたのは冷たいシステムメッセージ。
「このページは存在しません」
え?
思わず指で何度もタップし直したけれど、結果は同じ。
あの、marikoさんのアカウントが、丸ごと消えていた。
彼女は、顔出しをしない。ブランドロゴも出さない。
でも、朝の光が差すキッチン、読みかけの洋書、図書館の階段に腰かけた後ろ姿——
そんな『等身大のニューヨーク』を、静かに切り取る投稿を続けていた。
私は、その飾らない感じが、どこか羨ましかった。
「いいな、こういう自然体って、信頼されるよね」
でも、内心ではこうも思っていた。
「私は、あれじゃ戦えない」
最後の投稿は3日前。
『なんか、最近ずっとつかれてるな。。。』
写真は、湯気の立つマグカップと、曇った窓ガラス。
それだけだった。
私は、その投稿に「いいね」もコメントもできなかった。
でも、何かがおかしいとは、気づいていた。
その一文に、どこか「終わりの気配」が漂っていたことに。
それ以来、彼女は消えた。
フォロワーの誰も、そのことに触れなかった。
まるで最初から、そんな人はいなかったかのように。
でも私は知っている。
あんな『自然体の発信者』ですら、疲れ果ててしまう世界なんだ。
まして、私は——背伸びして、盛って、笑顔を演じて。
いつか、私も同じように、ふっと消えてしまうのかもしれない。
そんな未来が、不意に脳裏をかすめた。
YouTubeを開くと、「元駐妻」のチャンネルがいくつか表示された。
「帰国後のリアルな1日」
「日本の電車、久しぶりに乗ってみた」
最初こそ再生されているけれど、徐々に数字は落ちていく。
私は、それを見ていた。
「駐在生活」という舞台が終わった瞬間、光が一気に消えていくこと。
フォロワーは、優香という『人間』には興味がない。彼らが見たいのは、『駐在』というコンテンツだけ。
そして気づく。
あの人たちは、演じていたのではなく、たしかに『本当の自分』を見せていたのかもしれない。
でも、それでも続けられなかった。きっと、無理だったんだ。あまりにも、消耗するから。
その日の午後、私は動画の編集をしていた。
テーマは「今、NYで話題の新店舗3選」。
ダウンタウンの 『I’m Donuts』、
イーストヴィレッジの新しいベーカリー、
そして、最近オープンした抹茶カフェ。
どれも、かつてはSNSで話題になり、長蛇の列ができていた。でも今は、人もまばらで、観光客すら素通りしていく。
『映え』の寿命は短い。
それが、まるで自分の未来のように思えた。
編集が終わり、ふとストーリーの下書き画面を開いた。
「最近ちょっと、疲れてるかもしれない」
そう打ち込んだ指が、一瞬止まる。
投稿、しようか。どうしようか。でも思ってしまう。
「また、インプレッション稼ぎって思われるかも」
以前、「NYつらい」「無理かも」と投稿したことがあった。あれは半分本音、半分は『演出』だった。
「弱音もブランドになる」——そう信じていた。
でも今は、違う。
『本当にしんどい』ときこそ、発信できなくなる。
投稿はせず、画面を閉じた。
その夜、日本にいる親友からLINEが届いた。
《最近、大丈夫?YouTubeも見てるけど、ちょっと顔が疲れてる気がして》
彼女は、高校時代からの友達。
大学は別だったけど、ずっと『本音』で話せる相手だった。
「またメイク濃くなってるよ、優香」
「痩せすぎじゃない?」
「……ていうか、ちゃんと食べてる?」
SNSでは絶対に言われない言葉。
でも、私の『内側』を、彼女はすぐ見抜く。
電話をかけると、開口一番、彼女が言った。
「無理してるの、声でわかるよ。優香が、こんなに『誰かに認められたい』って思うようになるなんて、高校のときのあんたからは想像もつかない」
私は、何も言えなかった。
胸の奥が、ぎゅっとなって、声が出なかった。
そして、彼女が静かに言った。
「ねぇ、もしあんたがいなくなったら、誰が泣くと思う?」
その一言が、鋭く、深く、胸に刺さった。
通話を切ったあと、ストーリーの下書きを開いた。
「NY生活、楽しいことばかりじゃない。
でも、少しずつ見つけていきたいと思う」
その言葉を、投稿せず、保存だけして閉じた。
画面の中では、いまだに笑顔の私に『いいね』がついている。
でも、そのどれもが、本当の私ではなかった。
marikoさんも、 『元駐妻』の彼女たちも、
最初は、たしかに『本当の自分』を見せていたんだと思う。
でも、続けられなかった。
そういう場所なんだ。
そして私は——まだ、舞台の上にいる。
終わりを知りながら、それでも笑っている。