妻をニューヨークに連れてきたのは、俺だ。
異国の地で、彼女の人生を大きく変えてしまったのも、俺の決断。
だから最初は、思っていた。
せめて、好きなことはやらせてあげよう。
不安を埋めるものなら、全部肯定してあげよう。
YouTubeを始めたのも、彼女の「思い出を残したい」って言葉からだった。
編集は雑で、構成もバラバラ。撮影もiPhoneで十分だった。
でも、俺たちはただ笑ってた。
「せっかく来たんだし、思い出として残そうよ」
その言葉が、素直に嬉しかった。
あの頃は、まだ『自分たち』の記録だった。
でも今は違う。
動画のために、土曜の朝からセントラルパークへ。
「光がきれいな時間じゃないと意味ないから」って、寝ぼけた頭のまま連れ出される。
「ねぇ、今日は日本人のラジオ体操やってるはずだから、それも撮ろうよ」
「これ、絶対ウケるから」
……俺には、何が『ウケる』のか、もうわからない。
職場は、パークアベニューに面した高層ビル。 近くにはグランド・セントラル駅、日本領事館。 ネクタイを締めて、真顔で歩くビジネスマンたちのなかに、YouTuberなんていない。
昼休みにふとYouTubeを開くと、自分の妻がサムネイルに映ってる。
『夫婦でNY生活♡理想のモーニングルーティン』
すでに社内では有名だった。
上司も、取引先も、知っている。
この前の会食では、取引先の社長が笑いながら言った。
「『キラキラカップル』って、なかなか面白いね。奥さんの演出力、相当なもんだ」
苦笑いで返したけど、心の中では凍りついていた。
俺は会社では、『信頼できる担当者』でいたい。
でもその裏で、『バズりたい夫婦』として見られていく自分が、だんだん恥ずかしくなっていった。
毎日、夕方。彼女が編集を終えた動画がアップされる。
白いワンピースを着て、セントラルパークで笑う優香。ワイングラスを片手に、「自分に乾杯♡」とカメラにウインクする。
でも、俺が知ってる優香は、そこにはいない。
家では、ほとんど無言で編集作業をしている。トラックパッドを叩く音、BGMを調整するタイミング、字幕を入れるタイミング。
その表情は、無。 笑ってなんかいない。
「……なんのために、ニューヨークに来たんだろう」
ふと、そう思う。
日本で付き合っていた頃の方が、ずっと『人間らしかった』。
プリクラを撮って、くだらないことでケンカして、スーパーで一緒にじゃがいもを選んで、 休日には公園のベンチでアイスを食べていた。
あの頃の優香は、誰に見せるでもなく、自然に笑っていた。
今は、 誰かに見せるために笑ってる。 誰かが羨ましがるように言葉を選んでる。
家計の話も、もうちゃんとできない。
「今月、ちょっと使いすぎたかも。ホテルとレストランで20万くらい飛んでる」
「でも、フォロワー増えたよ? 今が一番『攻めどき』なんだよ」
俺は何も言わず、レシートを財布に戻した。
思い返せば、最初は全部『彼女の孤独』を埋めるためだった。
右も左も分からない街で、不安そうな顔をしていた彼女に、少しでも安心してほしくて。
ブランドのバッグも、アクセサリーも、買ってあげた。一緒に動画を撮るのも、笑わせるのも、そのためだった。
でも今は、それが『支え』なのか『依存』なのか、もう分からない。
「俺、もう本当の優香を見てないのかもしれない」
そう思う瞬間が増えた。
画面の中の笑顔と、編集中の無表情。SNSの世界でしか生きていない妻。
画面越しの彼女を見ている時間の方が、隣で過ごす時間よりも長い。
だから今日、俺は言ったんだ。
「ごめん、もうこれ以上協力できないわ」
優香の目が、大きく揺れた。なにかが音もなく壊れていく気がした。
でも、どうしても、もう笑えなかった。
俺たちは、もう『キラキラ夫婦』じゃない。
ただ、観客に拍手されることを前提に動いている『登場人物』。
だけど本当は、ただ一度でいい。
カメラが回っていない場所で、彼女と笑い合いたかっただけなんだ。