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第8章 #わたしをやめたい

「しばらく、SNSをお休みします」

たったその一文を、ストーリーに載せるのに15分以上かかった。
フォントの色を変えてみたり、背景に画像を入れてみたり。
でも最終的に選んだのは、真っ白な背景に、小さな黒い文字だけだった。

朝。目が覚めたとき、いつものようにスマホを手に取ろうとして、やめた。
代わりに、キッチンに立った。

お味噌汁を作る。
出汁の香りが、部屋にふんわり広がる。
具は、豆腐とワカメだけ。
おにぎりは、梅干しと鮭フレーク。

どこにでもある、地味な朝ごはん。
でも、その湯気を見ていたら、胸がじんとした。

「……こういうの、食べたかったんだ」

ぽつりと、独りごとのようにつぶやいた。

誰かに見せるためじゃない。
『映え』なんて一ミリも意識してない朝ごはん。

でも、その素朴さが、やさしかった。

その日は、スマホもテレビも見なかった。
電源を切って、本棚から一冊の本を取り出した。

『アルジャーノンに花束を』

高校生の頃に読んで、何度も泣いた記憶がある。
誰の目も気にせず、ただ『物語』と向き合う時間。
ページをめくるたび、何かが戻ってくる気がした。

数時間後、無意識にスマホの電源を入れてしまった。
依存症みたいに。

そして、ひとつだけ届いていたDMを開いた。

《最近投稿ないですね。何かあったんですか?》

たった一文。
でも、その『たった一文』に、どこか安心している自分がいた。

SNSをやめて3日目。
部屋着のまま、ノーメイクで過ごす日が続いた。

午後、無性に歩きたくなって、ブルックリンブリッジまで出かけた。

そこは、渡米して最初の週末に雄大と歩いた場所だった。
あのときは、右も左も分からなくて、
ただ二人で橋の上を歩いていた。

風は冷たかった。
でも、遠くに見えるマンハッタンの街並みが、なんとなく、あたたかかった。

今は、一人でその橋を渡っている。
誰も写真を撮ってくれないし、誰の視線もない。

でも、不思議と、それが気持ちよかった。

帰宅してから、昔の写真を見返した。

高校時代の私。
すっぴんで、髪はぼさぼさで、変顔をして笑っていた。

『映え』なんて言葉がなかったころの写真ばかり。

大学時代の私。
キャンパス、文化祭、海外旅行。
友達と撮ったピンボケの写真。
その瞬間をただ楽しんでいた、『演出されていない私』。

雄大との写真もあった。
日本にいた頃。

居酒屋で笑っていた夜。
ベッドの上でピザを食べながら映画を観ていた夜。
ソファで寝落ちして、朝まで毛布もかけずに過ごした日。

そこに写っていたのは、『キラキラカップル』なんかじゃなかった。
でも、それこそが、本当の私たちだった。

その夜、親友から電話があった。
本当は私の方から何度もかけようとして、やめていた。

でも、彼女はちゃんと気づいていた。

「ちょっと寂しいけど、SNSやめて正解だと思う」

「うん……少しずつ、楽になってきた気がする」

「でもまた、戻っちゃうでしょ?」

「……たぶんね」

「戻るなら、『自分の意思』で戻って。
誰かのためじゃなくて、自分のために」

「……わたし、誰のために発信してたんだろう」

「それ、自分で決めなよ。
『みんながやってるから』とか、『見てもらえて嬉しいから』じゃなくてさ。
優香が、自分のためにやるなら、私は全力で応援するよ」

彼女の声は、相変わらずまっすぐで、ぶれなかった。

電話を切ったあと、カメラアプリを開く。

そこには、まだ投稿していない動画たちが残っていた。

朝のカフェ、
夜のベッドルーム、
夫との買い物風景。

完璧に構成された光、角度、言葉。
『演出』としての私たち。

でも、それを見て、ふと思った。

「……今、これを投稿したら、また戻っちゃうな」

投稿は、しなかった。

代わりに、台所へ行って、お味噌汁をあたため直した。
湯気が立ちのぼると、ふわっと味噌の香りが広がった。

「……これでいい」

誰に見せるでもない、やさしい時間だった。

寝室に戻る直前、スマホを手に取って、ストーリーの下書き欄を開いた。

「明日、まだ投稿しないかも。
でも、今日みたいな日も、悪くなかった」

その一文を打って、保存だけして、画面を閉じた。

誰にも見せないまま。
でも、それでよかった。

(続きはこちら)第9章 #現実という贅沢