「しばらく、SNSをお休みします」
たったその一文を、ストーリーに載せるのに15分以上かかった。
フォントの色を変えてみたり、背景に画像を入れてみたり。
でも最終的に選んだのは、真っ白な背景に、小さな黒い文字だけだった。
朝。目が覚めたとき、いつものようにスマホを手に取ろうとして、やめた。
代わりに、キッチンに立った。
お味噌汁を作る。
出汁の香りが、部屋にふんわり広がる。
具は、豆腐とワカメだけ。
おにぎりは、梅干しと鮭フレーク。
どこにでもある、地味な朝ごはん。
でも、その湯気を見ていたら、胸がじんとした。
「……こういうの、食べたかったんだ」
ぽつりと、独りごとのようにつぶやいた。
誰かに見せるためじゃない。
『映え』なんて一ミリも意識してない朝ごはん。
でも、その素朴さが、やさしかった。
その日は、スマホもテレビも見なかった。
電源を切って、本棚から一冊の本を取り出した。
『アルジャーノンに花束を』
高校生の頃に読んで、何度も泣いた記憶がある。
誰の目も気にせず、ただ『物語』と向き合う時間。
ページをめくるたび、何かが戻ってくる気がした。
数時間後、無意識にスマホの電源を入れてしまった。
依存症みたいに。
そして、ひとつだけ届いていたDMを開いた。
《最近投稿ないですね。何かあったんですか?》
たった一文。
でも、その『たった一文』に、どこか安心している自分がいた。
SNSをやめて3日目。
部屋着のまま、ノーメイクで過ごす日が続いた。
午後、無性に歩きたくなって、ブルックリンブリッジまで出かけた。
そこは、渡米して最初の週末に雄大と歩いた場所だった。
あのときは、右も左も分からなくて、
ただ二人で橋の上を歩いていた。
風は冷たかった。
でも、遠くに見えるマンハッタンの街並みが、なんとなく、あたたかかった。
今は、一人でその橋を渡っている。
誰も写真を撮ってくれないし、誰の視線もない。
でも、不思議と、それが気持ちよかった。
帰宅してから、昔の写真を見返した。
高校時代の私。
すっぴんで、髪はぼさぼさで、変顔をして笑っていた。
『映え』なんて言葉がなかったころの写真ばかり。
大学時代の私。
キャンパス、文化祭、海外旅行。
友達と撮ったピンボケの写真。
その瞬間をただ楽しんでいた、『演出されていない私』。
雄大との写真もあった。
日本にいた頃。
居酒屋で笑っていた夜。
ベッドの上でピザを食べながら映画を観ていた夜。
ソファで寝落ちして、朝まで毛布もかけずに過ごした日。
そこに写っていたのは、『キラキラカップル』なんかじゃなかった。
でも、それこそが、本当の私たちだった。
その夜、親友から電話があった。
本当は私の方から何度もかけようとして、やめていた。
でも、彼女はちゃんと気づいていた。
「ちょっと寂しいけど、SNSやめて正解だと思う」
「うん……少しずつ、楽になってきた気がする」
「でもまた、戻っちゃうでしょ?」
「……たぶんね」
「戻るなら、『自分の意思』で戻って。
誰かのためじゃなくて、自分のために」
「……わたし、誰のために発信してたんだろう」
「それ、自分で決めなよ。
『みんながやってるから』とか、『見てもらえて嬉しいから』じゃなくてさ。
優香が、自分のためにやるなら、私は全力で応援するよ」
彼女の声は、相変わらずまっすぐで、ぶれなかった。
電話を切ったあと、カメラアプリを開く。
そこには、まだ投稿していない動画たちが残っていた。
朝のカフェ、
夜のベッドルーム、
夫との買い物風景。
完璧に構成された光、角度、言葉。
『演出』としての私たち。
でも、それを見て、ふと思った。
「……今、これを投稿したら、また戻っちゃうな」
投稿は、しなかった。
代わりに、台所へ行って、お味噌汁をあたため直した。
湯気が立ちのぼると、ふわっと味噌の香りが広がった。
「……これでいい」
誰に見せるでもない、やさしい時間だった。
寝室に戻る直前、スマホを手に取って、ストーリーの下書き欄を開いた。
「明日、まだ投稿しないかも。
でも、今日みたいな日も、悪くなかった」
その一文を打って、保存だけして、画面を閉じた。
誰にも見せないまま。
でも、それでよかった。